わたしが絵を描いている光景の中から最も古い記憶を話します。
1966(昭和41)年、小学5年生の秋半ばに福岡市へ転校するまで、北九州は小倉市(当時)の南、田園風景が広がる京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)に住んでいました。
家の前に児童公園とテニスコートがあり、それぞれの敷地の中に低草木で覆われた高さ5メートル位のお椀を伏せたような古墳がありました。
子どもたちは、学校が終わると公園で遊びます。 遊具と同じ感覚で、古墳表面を覆う木の幹や根を捕まえながら頂上に登ったり、ダンボール紙をお尻に敷いて滑り落ちるのを楽しんでいました。
そのころの子どもにとって、古墳が何か分かるはずもなく、登ることによって征服感を満たす冒険活劇の舞台でした。 人のお墓だと知っていたら怖くて遊ばなかったことでしょう。
周辺の大人たちも、それが1500年くらい前の当時の有力者によって造られた円墳で、埴輪等の副葬品が出土したことなど、よく知らなかったはずです。
古墳の下の方に、子どもが一人通り抜けられる大きさの横穴が開いていて、その奥に小さな石室がありました。
“僕”の隠れ家でした。
その、ほの暗いヒンヤリとした硬質な空間が「すみか」であり、「秘密基地」であり、岩で出来た「かまくら」でした。
土砂が浅く流入した石室内に新聞紙を敷き、昼寝をしたり、壁にロウ石や釘で「ポパイ」、「鉄人28号」、「鉄腕アトム」や「エイトマン」そして「ウルトラマン」の漫画を描いていた自分の姿をはっきりと憶えています。
時々夢に石室内が出るので、想い出が風化しないのかもしれません。
お気に入りの隠れ家に別れがきます。
4年生の暑い夏の日、石室に入ると1メートルを超える白ヘビが潜んでいました。
生まれて初めて見る白ヘビが、眼前をぬるりと通り過ぎて行く間の“全身総毛立ち”の恐怖から、二度と石室に足を踏み入れることはありませんでした。
子どもたちを楽しませてくれた古墳も、その後は荒れ放題になり、安全上の対策か、頑丈な鍵と「立ち入り禁止」の札が架かった有刺鉄線の柵の中で、古墳は死んでしまったようにありました。
オスカー・ワイルドの短編小説 『幸福の王子』 をみるようでした。
JR日豊本線沿いの児童公園(当時、テニスコート)に隣接する南原2号古墳
石室をふさがれ、樹木を伐られ、ごつごつした山肌も削られて当時の面影は全くありません。
わたしが歩いて通った町役場近くの幼稚園の横にも、前方後円墳「石塚山古墳」がありました。(国史跡。九州最大級全長120メートル、築造3世紀中頃~4世紀初頭は最古級。重要文化財の中国製「三角縁神銅鏡」や太刀、勾玉などを出土)
その古墳は子ども心に“とても恐ろしい杜”に見えて、セミ採り以外あまり寄りつきませんでした。 考古学ファンの間では有名な石塚山古墳ですが、わたしにとっては優しい無名の(南原)古墳のほうに大切な想い出が詰まっています。
数年前、初恋の人に会うように苅田町を訪ねました。
当時住んでいた家、
わたしが通っていたすみれ幼稚園、
喘息で通院していた三原病院、
いつも寄り道していた自転車屋、
仲の良かった友達の家、
東映動画『安寿と厨子王』 『わんぱく王子の大蛇退治』 『シンドバッドの冒険』 を特大スクリーンで見た映画館、
後日、反目することになる父に連れられて男二人、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』 を観た映画館、
みんな無くなっていました。 跡形もなく。
当時住んでいた自宅玄関の位置から撮影。公園内の右後方に南原古墳1号が見えます。 歩いて30秒!の位置でした。
南原古墳1号の、白蛇と遭遇した石室口の一部が露出していました。すっかり整備されて当時の野趣に富んだ面影はありません。
今考えると、古墳群が点在する田舎で、子ども時代を過ごしたことは、とても良かったと思います。 盗掘された石室内で過ごした時間は、石棺の中に埋葬された人と無言で交信していたのかもしれません。
主人が哀しんでいたのか、喜んでいたのか、どうだったのでしょうか。
アトリエの前で
話だけじゃなんですね。BGMに、子どものお墓遊びが出てくるフランス映画 『禁じられた遊び』(1952)から、ナルシソ・イエペスのギター 「愛のロマンス」 を流しながら、わたしの原風景物語を終わりたいと思います。
♫♪♬♪♬♪~
追記:
新井満が歌う 『千の風になって』 の替え歌を作ってみました。
♪ わたしのお墓の横で泣かないでください~
そこにわたしはいません 眠ってなんかいません
(横だから他家の墓です)
もうひとつ!
♪ わたしのお墓の中で描かないでください~