欠けた<六華撰> (つづき)

 「俺の弔辞の一つに、いろんな搦みがあったわけだ」
 「そうらしいな」
 ジンも具体的にその男の名前は出さなかったが、にこりともしなかった。
 「ブックに迷惑かけた事になるのかな。あいつ何も言わなかったけど」
 「それがブックのいいとこだよ」
 また三人三様の思いが短い言葉で交わされた頃、タックが現れた。
 「さ、どっかで飯でも食ってから送るわ。ジンとザカは駅か。ニューは小松空港までつれてってやる」
 「悪いな、商売そっちのけで」
 「心配するな。今日一日何かやってみても、急に商売が上向くわけでもなし」
 遅めの昼飯は私の“稲荷うどん”という希望が受け入れられて、そば屋になった。関東では“きつねうどん”。ただ薄揚げが細切りになっている。高校の頃、校庭の塀の隙間から抜け出し、裏のうどん屋でよく食べた。
 「タックは呑んだらいかんぞ」
 釘をさしておいて、ザカは坐るとすぐに冷や酒を注文した。寒くてもそば屋では冷や酒と固執しているところは、昔も今も変っていない。
 「ひと口くらい呑ませろ」
 「だめだ、お前はこの三巨頭の命を預かっておる。万一事故でも起こしてみろ、天下が傾く」
 そうは言いながら、ザカはタックのぐい呑みに半分ばかり注いだ。
 「ところでな、もし俺がニューより先に死んだら、俺の弔辞はお前がやってくれ。決めたからな」
 何の脈絡も無くザカが言った。
 「何だ、もう酔ったのかよ」
 熱燗を手にしながら、どんな洒落が続くのかと顔を上げると、まともに向きなおっていた。
 「本気も本気、大本気だ。今日のお前の弔辞を聞きながら、われながらグッドアイデアだと、本気で決めた」
 「じゃ、俺のは誰がやってくれるんだ。ジンか?」
 「それはな、お前がお前自身でやるしかなさそうだ。それ以外に考えられるか。お前が、死んだお前に別れの言葉を述ベる。俺はな、高校の文芸誌に発表したお前の詩の一節を今でも覚えてるんだ。“私は もはや失われた視覚に 白日の波に浮かび 沈み 弄ばれる 私の死体を映していた”…俺たち、どこからか響いてくるお前自身の弔辞を、にたにたしながら聞いてやるよ」
 「そんなくだらないもの、よく覚えてるな。ま、いいや。でも俺が死んでも儀式はやらない。ただ女房には、“この人たちだけは連絡してくれ”って、名前と連絡先を渡してある。もちろんお前たちも入ってるけど、都合が悪かったら今のうちに言っといてくれ」
 「逆にこの世じゃ連絡がつかなくなってるかもしれんぜ。連絡方法までちゃんと考えておけ」
 ザカが冗談ではぐらかそうとした。
 「そうだな。高校の頃は、いくつになったらみたいな事を考えてたわけだけど、今はあと何年残ってるのか考えるようになったもんな」
 「そういう事だ。…ところでな、六華撰という名前をこれからどうしたらいいのかな」
 さて、と立ち上がりかけるのを制して、ジンがタックにちょっと気をつかうような間をおいて問いかけた。
 「そうだ、肝心な議題を忘れていたよ。しかし今更、白波五人男だの五弁の椿だのと改名してみたってはじまらんし、ショーベエに悪いよな」
 ザカが坐りなおした。
 「かえって虚しくなるだけじゃないか。と言って、平成九年二月十日をもって解散というわけにもいかんし、残しておこうよ。ショーベエを入れたままの六華撰。名付け親はあいつなんだし、いつか四人になり三人になりしたって、そのまま六歌撰でいいじゃないか」
 私の言葉にジンとザカがうなずきあった。
 「もう、いいか」
 タックがレジに向かった。
 「おい、ワリカンにしよう」
 気付いたジンが声をかけた。
 「せめて地元に昼飯くらい出させてくれ」
 「じゃ、ご馳走になろう」
 駐車場ヘ入れた車の方ヘ歩きながら、ザカは久しぶりで金沢をぶらついて行くからと断った。
 ジンはお母さんの病院ヘ寄って行くと言う。
 「いっしよにお見舞いに行ってもいいかな。俺はまだ時間もあるし」
 「気持ちはありがたいけど、もうお前の事わからんと思う」
 「そんななのか…」
 よろしく伝えてくれ、と言うわけにもいかず黙って別れた。
 結局タックは私一人を小松空港ヘ送ってくれる事になり、助手席に乗った。
 最初はお互い商売の辛さを愚痴まじりに軽く話しあっていたが、タックは私の会社の事を知りたがった。六華撰の仲間は深入りして来ないのに、とわずらわしかったが、送ってくれる好意的な友人を無視するわけにもいかず、急激に仕事が減り、銀行の融資も止められ、家を手放す事になるかもしれないと簡単に話した。
 タックは今苦労しているのはニューだけではないと慰めながら、ブックは兄貴が事業に失敗して千万単位の負債を連帯保証人として肩がわりする事になるらしい。ザカはギフト会社を設立したがうまく行かず、赤字はふくらむばかり。ミツグは東京本社で取締役になったとたん社長と営業方針で真向から対立して会社をやめ、新潟で昔の人脈を頼りに独立したが、手のひらをかえされたようにそっぽを向かれている。ジンのお母さんはもう医者から見放された状態…などと仲聞の現状に詳しい。狭い土地柄で他人の話が好きな風土性が身にしみこんでいるのだろう。ようやく空港に着いて、ほっとした。
 すでに搭乗手続きが始まっている待合室でまた生ビールを二杯呑み、たて続けに吸うタバコの煙を見つめていると、すでに骨壺に納まってしまった筈のショーベエの事、それぞれに重い物をかかえながらさり気なく散って行った仲間たちの事、明日からの先行きの事などがもつれながら脳裏を通過して行く。
 シートベルトを締めると、座席は狭く固かった。すぐに離陸した窓から雲海を眺め、時折雷が飛ばしてくる閃光を見ていると、ショーベエが物言いたげにサインを送っているようにも思えた。
 六華撰命名の時、ショーベエは言った。
 「唯我独尊のつもりでいた夢多かりし華」…その一つが消えてしまった。後頭部から血が洩れて行くような感じがして、ふと“寒い”と思った。
 不意にドンと重い音がし、機体がゆらいだ。すぐに、今のは落雷による衝撃で、まったく異常は無いとアナウンスが流れた。
 “もしこのまま落ちて死んだら、いくらくらい出るんだろう。保険はどうだったろう。家は売らずに残してやれるかもしれないな…”。
 腕時計は到着十五分前を指している。しばらくの間、ただ生真面目に生命を刻み、切り取って行く時計という機械の秒針を、奇妙な動物のあがきのように見続けていた。
 「まもなく当機は定刻通り東京国際空港に着陸いたします。シートベルトをおたしかめのうえ…」
 アナウンスを聞きながら、もう一度ベルトをきつく締めなおしてみた。機は滑るように地球に降り、地上をゆっくり旋回すると静かに停った。日常のざわめきが戻ってきた。



<完>

 

アナログ高校物語の索引はこちら

 

 

いままで読んでくださってありがとうございました。

振り返ってみると、

第1回の投稿は2017年6月13日。

およそ1年連載をしてきたんですね。

1年間、毎週父のことを思い出して、

いろいろなことに想いを巡らしてきたと考えると

それなりに貴重な期間だったのかもしれません。

 

はじめは毎週欠かさず更新ができるのかどうか、

最後まで続けられるのかという不安がありましたが、

ここまでできたのはコメントをくださった方々やお読みくださっている方のおかげです。

改めて感謝を申し上げます。

ありがとうございました。

 

はたして8年前、父は自分の弔辞をやっていたんでしょうか。

残念ながら、

儀式をやらないという意向を伝えていたはずの母は他界していたし、

我々子どもたちはそんな話を聞いていなかったため葬儀は行われました。

そしてこの物語に登場する友人の方々も参列してくださっていました。

おそらく、六華撰のすべてのメンバーは、

それぞれの場所でニタニタしていたのでしょう。

羨ましい限りです。

 

 

 

『アナログ高校物語』は、

創設から4年を経た(昭和28年)石川県立金沢二水高等学校の

ある日の授業風景から始まる物語です。

 

物語の書き手は私の父、伊藤嘉直。

 

昭和10年生まれの父は同窓の仲間の協力を得ながら

平成12年12月に書き上げられたこの物語は、20部だけ製本して形になったようです。

 

おそらく私は社会人1年目に父からこの本を手渡されました。

なかを読むことなく15年以上が経ち、父もすでに他界しました。

 

思うところがあって、

今回、初めて内容に目を通すと同時にブログへの公開に取組んでいます。

 

【思うところを書いた記事】 アナログ高校物語 第0回 〜父の自叙伝のようなもの

 

 

 

手元に一冊だけ父から渡された本があり、

その表2部分(表紙の裏)には、こう記されています。

 

==

 

駄文の書き手  伊藤 嘉直

美本の造り手  上田 孝信

気力の支え手  梅田 俊彦

評のほざき手  笠松 正彦

           窪田 香代

           細川 弘司

           前川 盈

           松村 順

           山本喜久二

           (五十音順)

 

※以上 昭和二十九年石川県金沢二水高等学校第六期卒業生

 

-----------------------------

アドバイザー  植松 二郎

※第十二回織田作之助賞受賞作家・コピーライター

 

 

 

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私が代表をつとめる

自分史ムービー工房のホームページ、
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写真提供:金沢市

欠けた<六華撰> (つづき)

 ゆったりとソファーに身を沈め、三人が同時に大きく息をついた。
 「ニューはなに飲む」
 ジンに聞かれ、久しく飲んだ事のないココアを頼んだ。車を降りてからタバコを買い、信号を待つ間の芯にしみた寒さがまだ抜けていない。
 「あ、そいつはナイスセレクションだ。ジンも付合え。…ところでニューよ、お前の弔辞よかった」
 いつも皮肉まじりにまぜっかえす事の多いザカが真顔で言った。
 「お前がそう言ってくれると、ほっとするよ。あんな弔辞ってあっていいのかなとと、ずっと気になっていたんだ」
 「あんなふうにあるべきだ。なんか、居合い抜きでもろもろスパッと切り捨ててくれた気がするぜ。特にな、“幼少の頃から”ってのがきいたよ。あれで皆々様納得って感じじゃないのかな」
 強い口調に驚いたが、以前ジンから聞いた話で、ザカの意味するところの見当がついた。
 定年を待たずに名古屋の放送局を退社し、割増しの退職金を元手に、「今のアルゼンチン・タンゴは堕落してしまった。俺がアルゼンチンヘ行って、本来の姿をよみがえらせるようなライブハウスを開く。その手だてもできている」、そう言って仲間に歓送されて出発した事を聞いた時は、高校時代から抱き続けてきた思い入れの深さと、この年齢での決断力に羨望さえ感じた。
 しかしザカは一年も経たずに戻って来た。在社中にコネをつけた相手の契約に対するアバウトさ、おまけに急激なインフレ、打つ手すべて裏目に出て、諦めざるを得なかったらしい。
 戻ったザカを勇気づけようという、ショーベエやブックの発案で、金沢で残念会を開いたという話をしてくれたのがジンだった。歓送会も残念会も私に声がかからなかったのは、急だったのでわざわざ横浜から呼び出す程の事でもないだろうという話になったからだという。
 集まった仲間はザカの心情を察して、アルゼンチン女のオッパイだのケツだのナニの事など話させようとしていた。その時、一人の男が声を荒げて立ち上がり、「皆の前で宣言して行った男が、何をおめおめ尻尾を巻いて戻って来たんだ。一度決心した事は、やりとげるのが男だろう!」と叫んだ。
 一触即発、そんな空気だったらしい。だが、顔面蒼白のザカをはじめ、他の十人余りも黙ってこらえた。聞かないふりをするしかなかった…と、あの時ジンは溜息まじりに述懐した。
 それが葬儀を仕切り、受付で対応し、おそらくは“友人を代表するのは自分をおいて他にはない”と自負していたであろう男である事は想像がついた。先刻「お、友人代表」と声をかけてきた調子も、いかにもわざとらしかった。弔辞の事でブックに何かを気にしている様子が感じられたのは、あの男に話を通す必要があったからなのだろう。確かに高校の時も目立ちたがり屋だった。
 思いかえせば、仲間でショーベエの自宅ヘ見舞いに行った時、途中からその男が現れてわれわれの話の腰を折り、いきなり「ショーちゃん、くよくよせんと頑張れや。頑張らんとだめや」と背中を叩いた。すでに体力を失っていたショーベエは押し倒されたように両手を畳につき、「頑張れって、いったい何を頑張ればいいんだ。俺にはもうわからん」、ちょっとすてばち気味の悲し気な表情で言ったのが忘れられない。
 ザカが「居合い抜きでスパッと」と言った気持ちがわかった。

<アナログ高校物語 第54回につづく>

アナログ高校物語の索引はこちら

 

 

いつも読んでくださってありがとうございます。
アナログ高校物語は毎週火曜日更新です。

 

ちなみに物語に登場する伊原なる人物が

わが父、伊藤嘉直のようです。

 

そういえば、父が残したものの中に、

友人の方の手によって焼かれたCDがありました。

収録されているのはアルゼンチンタンゴな気がします。

次の週末にでも聞いてみようかと思います。

 

長らく続けてきた連載も、

次週で最後となります。

 

 

『アナログ高校物語』は、

創設から4年を経た(昭和28年)石川県立金沢二水高等学校の

ある日の授業風景から始まる物語です。

 

物語の書き手は私の父、伊藤嘉直。

 

昭和10年生まれの父は同窓の仲間の協力を得ながら

平成12年12月に書き上げられたこの物語は、20部だけ製本して形になったようです。

 

おそらく私は社会人1年目に父からこの本を手渡されました。

なかを読むことなく15年以上が経ち、父もすでに他界しました。

 

思うところがあって、

今回、初めて内容に目を通すと同時にブログへの公開に取組んでいます。

 

【思うところを書いた記事】 アナログ高校物語 第0回 〜父の自叙伝のようなもの

 

 

 

手元に一冊だけ父から渡された本があり、

その表2部分(表紙の裏)には、こう記されています。

 

==

 

駄文の書き手  伊藤 嘉直

美本の造り手  上田 孝信

気力の支え手  梅田 俊彦

評のほざき手  笠松 正彦

           窪田 香代

           細川 弘司

           前川 盈

           松村 順

           山本喜久二

           (五十音順)

 

※以上 昭和二十九年石川県金沢二水高等学校第六期卒業生

 

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欠けた<六華撰> (つづき)

 九時起床という事だったが、八時頃に起き出したブックの物音につられて寝呆け顔が奥から二階から集まった。少し硬くなった大福にお茶を何杯もお代わりして、それが朝食。お茶もいい、入れ方もいい、水もいいのだろう。
 雪はやんで、かすかに晴れ間がのぞいていた。荷物をトランクに入れてブックの車に乗り、式場ヘは三十分ばかり前に着いた。受付では、最後までショーベエのためにと言わんばかりの川又と松田が仕切っていて、手伝いは無用という感じで客扱いされた。
 最初のお経が終ると女性のアナウンスが流れた。
 「ここで弔辞をお願い致します。友人代表、イハラナオキ殿」
 「え、トップバッターかよ。知ってたのか」
 横に並ぶブックに小声で聞いたが、ザカと二人、正面を向いたまま答えない。通路をはさんで隣の席にいたジンが、けげんそうに顔を見た。ブックだと思いこんでいたらしい。どこかで、あの用意されていた弔辞を読んで意見を求められていたのかもしれない。
 “落着け。泣くなよ。湿っぽいのはショーベエも好きじゃない”、内心呟きながらゆっくり進み出る。多少手のふるえを感じながら弔辞を取り出し、もうー方の内ポケットから老眼鏡を出してかけた。グレーとエンジのセーター姿で遺影が見つめる。硬直感が背中を走った。背後には“突然出てきたこの男は…”と静まりかえった空気が凍結している。ひとつ深呼吸をしてから、差しの気持ちで話しかけた。
 「黒田昭造さん、あなたは…と始めるべきなのだろうけど、幼少の頃からお互いそんなふうに呼びあった事はない。小さい頃何と呼んでいたか忘れたが、中学以来、俺はショーベエと呼び、お前はニューと呼んで付合ってきた。いい事、悪い事とりまぜて、いつも兄弟分みたいにつるんできたよな。学校のまともな事はもちろんだが、芝居の主役をめぐってもめたり、俺のガールフレンドの事で手助けしてくれたり…もっとも、俺だってもちつもたれつの協力をした事は数えきれない。
 それはともかく、覚えているよな。初めて六人の高校仲間、ショーベエお前と、ジン、ザカ、ブック、俺が、新潟のミツグの新築空家に集まったときの事を。
 かんかんがくがくの末、これを六華撰と命名したのはお前だ。
 またやろう、と別れた翌年、今度はジンの音頭とりで京都に集合して、祇園のお茶屋や広い庭園のある料亭で、さんざんジンの世話になったよな。あの頃、お前はまだ呑めた。
 あれからしばらくして、お前の病気の話が伝わってきた。その時はまだ、“次はショーベエの快気祝いを金沢でやろう、あいつはいろんな病気を体験してきて、打たれ強いから大丈夫だよ”という事になっていたのはお前も知ってる筈だ。
 今、その六華撰の名前を残したまま、お前は勝手に一人で消えてしまった。残された五人の気持ちにもなってほしい。
 その五人が、ブックは金沢だけど、ジンは京都から、ザカは名古屋から、ミツグは新潟から、ニューは横浜から、こうして集まった。もしお前が嫌な男だったら、この面々が急遽ツラを揃える事も無かっただろう。
 そしてお前に挨拶したくて、これほど大勢の皆様方も集まってはくださらなかったろう。
 …今ふと思い出して言いたくなった事がある。
 おととしの一月頃だったか、お前が突然カニを送ってきてくれた。その添え状がいかにもお前らしく、“高校一年の時、香林坊の千草という店でうまいぜんざいをおごってもらったお礼だ”と書いてきたっけ。今にして思えば、あの時すでにお前に何か感じるものでもあったのか?
 それにショーベエ、お前は昔の事をすぐに忘れてしまう俺の過去を、驚くほど正確に覚えていてくれた。
 “それはな、何年何月何日、確か何曜日、どこそこで誰と誰がいて、こうなったんだ”という調子だ。俺は俺の生き字引を失ってしまった。仲間の何人かもそう思っているだろう。これから先、郷愁にかられて“あの時”の事を知りたくなっても、答えてくれる奴はもういない。まるで俺自身の半分が消えてしまったような気がするぜ。
 考えてみると、お前と出会って半世紀以上になるわけだ。よく永い間付合ってくれたよな。たまたま俺が多くのの仲間に代わってここに立つ事になったけど、皆といっしょにもう一度言う。それぞれにいろいろあったと思うけど、永い付合いありがとう。
 ショーベエよ、本当にありがとう」
 終りはこらえきれずに声がつまった。別れとか、ご冥福とかはいっさい言いたくなかった。
 席に戻ると、ザカが親指と人差指で円をつくり、目の端をおさえながらグーのサインを出してくれた。ブックの握手がかえってきた。その手にかすかな水気が感じられた。全身の緊張がぬけ、思いがけず涙が溢れ出した。隣の二人は気付かないふりをしていた。弔辞は一人だった。
 棺の中ヘ仲間たちは花を入れに行った。梅沢は休診にするわけにはいかなかったのだろう。何故かタカの姿も見えなかった。ご主人が入院中と知ったのは後の事だった。
 離れて一人立っているとミツグが来た。
 「花入れてやったのか?」
 「いや」
 「なんで…見納めだぞ」
 「生きている時に見納めたよ」
 つい口をついて出た言葉が、どう受けとられたか気になったが、どうしても死顔を見たくなかった。
 ブックは、私やジン、ザカの帰る時間を計算に入れて、火葬場ヘ向かうバスの人数からはずしてあった。ミツグは付添った。
 霊柩車を見送って佇んでいると、受付で仕切っていた川又が声をかけてきた。
 「お、友人代表、ご苦労さん」
 「いや、出しゃばってすまん」
 「うん、最初はブックにゆずったんだけどな、また突然変更だと聞いて、ちょっと驚いた」
 友人代表をめぐって何かがあるらしいという昨夜からの予感は当たっていたようだ。
 「ブックが、どうしてもと言うんでな…。それにしても、あんたが中心になっていろいろ面倒見てくれたようだな。そっちこそ、ご苦労さん」
 私は下手に出た。
 「友人として当然の事だよ」
 いい具合に井田のタックが小走りに来て肩を叩いた。金沢の中心街でジュエリー・ブティックを経営している高校仲間。不況の中でも、会えば陽気にふるまう男だが、この時ばかりは声が低かった。
 「ブックから、お前ら三人のあとの面倒を見ろと頼まれた。とにかく、わしの車に乗ってくれや。荷物はもう移しかえた」
 そういえば荷物の事をすっかり忘れていた。
 「すまんな」
 「仕事はいいのか」
 「かまわん。それで、ニュー、あとはどうする?」
 「別に考えてないけど、とにかく俺たちは今日中に帰る。骨を拾ってやれないのが心残りだけど…」
 そうは言いつつ、内心は骨になってしまったショーベエを見るのがたまらなかった。
 「もう充分やろ。ショーベエも喜んでくれとるわ」
 「もう少し話もしたいよな。ニュー、ザカ、どうだ」
 ジンが呟くように言った。
 「このままアディオスって気分でもないな、ニュー」
 「うん、最終便に乗りゃいいんだから」
 「そんなら、とりあえず“ガルボ”に集まらんか。わしはちょっと店に戻るけど、待っとってくれや」
 昔わが家があった辺りを通って、それぞれに思い出す事も多いのか無言のまま着いた香林坊下のガルボ。高校の頃よくたむろしてだべっていた喫茶店。ザカは一番奥のロココ風の古びたソファーの席を選び、ひとわたり見まわしながら言った。
 「この珈琲屋も頑固に昔のままだな」
 喫茶店と呼ばないのは、以前からの仲間うちの気取りだった

<アナログ高校物語 第53回につづく>

アナログ高校物語の索引はこちら

 

 

いつも読んでくださってありがとうございます。
アナログ高校物語は毎週火曜日更新です。

 

ちなみに物語に登場する伊原なる人物が

わが父、伊藤嘉直のようです。

 

この物語はすべて父が書いたものですが、

ここに出てくる“弔辞”には、

父らしさを強く感じました。

花を入れにいかないところにも。

自分が花を入れられているときは

どんな気持ちでいたんでしょうね。

 

 

『アナログ高校物語』は、

創設から4年を経た(昭和28年)石川県立金沢二水高等学校の

ある日の授業風景から始まる物語です。

 

物語の書き手は私の父、伊藤嘉直。

 

昭和10年生まれの父は同窓の仲間の協力を得ながら

平成12年12月に書き上げられたこの物語は、20部だけ製本して形になったようです。

 

おそらく私は社会人1年目に父からこの本を手渡されました。

なかを読むことなく15年以上が経ち、父もすでに他界しました。

 

思うところがあって、

今回、初めて内容に目を通すと同時にブログへの公開に取組んでいます。

 

【思うところを書いた記事】 アナログ高校物語 第0回 〜父の自叙伝のようなもの

 

 

 

手元に一冊だけ父から渡された本があり、

その表2部分(表紙の裏)には、こう記されています。

 

==

 

駄文の書き手  伊藤 嘉直

美本の造り手  上田 孝信

気力の支え手  梅田 俊彦

評のほざき手  笠松 正彦

           窪田 香代

           細川 弘司

           前川 盈

           松村 順

           山本喜久二

           (五十音順)

 

※以上 昭和二十九年石川県金沢二水高等学校第六期卒業生

 

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アドバイザー  植松 二郎

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