パナスポーツニッサンターボC
LM05C/日産FJ23ターボ
写真ではわかりにくいが04Cよりリアウイングが大型化されている。カウルデザインはムーンクラフトという説もある。確証はないが市販車に寄せる縛りがなくなったので洗練されたデザインになった。フロントカウル先端を絞り込んだデザインのためか角目ヘッドライトから丸目に変更。

このマシンは1985年シーズンに参戦したLM05Cです。日産ワークスの3チームはマーチ85GとローラT810シャーシにVG30ターボで参戦したがルマン商会はオリジナルシャーシで継続参戦しLM04C/スカイラインターボCの後継マシンとして開発。アルミプレートモノコックからハニカムモノコックに変更しボディ剛性強化と空力改善を施しエンジンは追浜チューンの日産FJ23ターボを搭載する。このマシンに関しての資料は少なく詳細なデータは不明だが豪雨の中開催されたWEC in JAPANで2位の快走を見せ周囲を驚かせた。
FJ23ターボとは日産ワークスチームが84年最終戦から85年の序盤にかけて搭載していたFJ20のボア・ストロークをアップし排気量を2340ccまで拡大させたエンジンだ。主にストロークをアップさせたFJ23にギャレット製タービンと電子制御インジェクションを装備し日産のプレスリリースでは過給圧1.5で8000rpm/640psを発揮する。国産車では唯一の4バルブエンジン。
レース用エンジン開発担当の追浜としてはニスモがアメリカから買ってきたVG30への反発もあったようで遅まきながらFJの開発に力を注ぎマーチ85Gをテスト用に購入している。
写真は市販車のVG30ET型エンジン。最終的には89年シーズンまで使用され87年WEC JAPANでは和田孝夫選手ドライブのチームルマンマーチ86Vにより国産エンジン初のポールポジションを獲得した。
市販車流用の2バルブOHCエンジンでレースではトラブルも多かったが一発の速さを見せた。
富士500マイルでの日産オフィシャル広告。日産の意気込みが伺えるがレースではスカイラインが9位完走シルビア、Zはリタイアに終わった。カラーリングが84年仕様になっている。

1985年シーズンの主な出場車
マーチ85G/日産シルビアターボCニチラ
新型エンジンVG30ツインターボを新車マーチ85Gに搭載したシルビアターボC。豪雨のWEC JAPAN優勝が86年からのル・マン挑戦につながる。
マーチ85G/日産スカイラインターボCトミカ
車体はシルビアと同一だがタイヤがダンロップ。翌86年ル・マンに日産R85Vとして出場し16位完走を果たす。もはやスカイラインとの関連性は一切なくなり翌年から市販車名は外れた。
86年ル・マン24時間 日産R85Vアマダ
ローラT810/日産フェアレディZ-Cキャノン
ローラと取引のあるエレクトラモーティブ社からVG30との抱き合わせシャーシをセントラル20が使用。キャノンの単独スポンサーになる。成績は奮わなかったが個性的な迫力あるスタイルで人気はあった。86年まで参戦する。
86年 日産R810V takaQ-Z
86年WEC JAPANよりマーチ85Gにスイッチした。セントラル20は86年限りでグループCからは撤退する。
フロムエーポルシェ956
イセキトラストポルシェ956
チャンピオンナンバーのゼッケン1
ポルシェ勢はアドバン、イセキトラスト、フロムエー、レノマの計4台になった。
ワコールトヨタ童夢85C
85年ル・マン24時間 トヨタトムス85C-L
ル・マン仕様のローウイング、レイトンハウスがレースのスポンサーに初めてついたがまだレイトンブルー塗装ではない。
トヨタも日産も参戦当初はル・マンのオクタン価の低い粗悪ガソリンの対応に悩まされた。

トムス85Cは84Cを空力リファインしたマイナーチェンジ車。トヨタ勢はレイズ(ボルクレーシング)とワープゾーン(オートビューレック)が新たに加わった。(レイズは84Cにて参戦、WECのみミサキスピードが85Cでスポット参戦)トムスと童夢はテールカウルをモディファイした85C-Lでル・マンに挑戦し童夢はミッショントラブルでリタイア、トムスは12位完走を果たす。

長谷見昌弘選手のマーチ85G/ スカイラインターボCを追い上げるパナスポーツ日産ターボC。ノーズ先端にTeam LeManの文字。

戦績
LM05Cはルマン商会がエントリーしメインスポンサーはアパレルのパーソンズとホイールメーカーのパナスポーツ。エントリー名はパナスポーツニッサンターボC。中子修選手と森本晃生選手のコンビ。シーズン当初の鈴鹿500キロと富士1000キロはLM04C/LZ20Bで参戦しドライバーもトヨタトムスから日産に移籍した松本恵二選手と中子修だったが松本がホシノレーシングから参戦することになり弟子の森本が代役を務める。WECのみ第三ドライバーとしてイタリア人ドライバーのエマニュエル・ピロ選手が登録されていた(ピロ選手は88・89年にチームルマンで全日本F3000に出場している)。松本選手は当時パーソンズのスポンサーを得たチームルマンよりF2やGCに出場していた。
デビュー戦富士500マイルは予選14位決勝0周リタイア。続く鈴鹿1000キロも予選12位決勝33周でリタイア。
次戦WEC in JAPANでは予選1日目はシフトリンケージとブーストの上がらないトラブル、2日目はオーバーヒートとウエストゲートトラブルなどもあり予選18位と下位に沈むがしかし豪雨の決勝で快走を見せる。中子修のドライビングとブリヂストンスーパーレインタイヤで徐々に順位を上げていきピットアウト後には3位に浮上、中嶋悟選手のトヨタトムス85Cと2位を争う。中嶋のスピンで2位に上がりチェッカー寸前激しく追い詰められるも凌ぎ切りVG30ツインターボのマーチ85G/シルビアターボC星野一義選手に継いでチェッカー。戦闘力を考えると大金星と言える2位入賞を果たす。
もっとも豪雨に対応する深溝レインタイヤを持たない海外勢の棄権で日産、トヨタ、国内ポルシェの戦いとなりその中でも当時レインタイヤで圧倒的優位を持つBSユーザーが上位を占めたレースだった。豪雨のため226周から62周に短縮されたのもマシンの信頼性を考えれば幸運だった。なにしろ実戦では鈴鹿で200キロ程度しか走っていないのだから。日産勢は優勝シルビア、2位パナスポーツ、5位スカイライン、8位Zと全車完走し前年の雪辱を果たした。
ボルクレーシング84CをラップするLM05C
セーフティーカーの入る荒れたレースになったが安定した走りを見せた。

これまで日産直4エンジン搭載車が表彰台に登ったレースは全て雨で気温低下とウェットレースでラップタイムも遅くオーバーヒートの心配が無いからと思われる。
シーズン最終戦の富士500キロでは予選8位、またしても豪雨の決勝はクラッシュにより0周リタイアに終わっている。
1985年10月6日 WEC IN JAPAN
予選18位 決勝2位
ピットアウトするLM05C 気温低下でフロントのブレーキダクトは塞がれている。ドライバーは中子修から交代せずガスチャージだけでピットアウト。
終盤、豪雨の中シケインをカウンターで立ち上がるLM05C日産/中子修
フォーメーションラップから右側のヘッドライトが点いていない。後方は差を詰めてきた3位の中嶋悟トムス85C。コーナーでは詰められるもストレートではトヨタを引き離していた。
最終コーナー

86年シーズンは日産VG30ターボの供給を受けテストを行ったがパワーに対して大幅な剛性不足が露呈し断念。ルマン商会はマーチを購入してVG30で参戦することになり日産のサテライトチームとしての役割を担っていく。VGエンジンは最終的にアルミブロックVG32まで進化し日産肝いりのVEJ30エンジン搭載車を凌駕する速さを見せた。
日産にとってVEJ30での失敗は痛恨だった。ル・マンでのレースマネージメントを学ぶ機会も失いル・マン制覇する以前にグループCカテゴリーが消滅してしまう。VRH35搭載車の性能とドライバーの技量はル・マン制覇を可能にする実力はあったがマネージメントの部分での経験値が足りなかった。
エンジンを失ったLM06Cはトヨタ4T-GTの供給を受け参戦。87年には07Cとなりトヨタ3S-GTの供給を受け雨のレースでは好走しプライベートマニュファクチャラーの意地を見せた。

ここまでスカイラインターボCを中心にグループC耐久レース黎明期における日産直列4気筒エンジン車の苦闘を紹介してきました。85年シーズンをもって日産グループCカーはVG30に統一されLZ20B、FJ20、FJ23と繋いできた直4エンジンはその役割を終えました。ポルシェ956の2.6L水平対向6気筒ツインターボエンジンに対抗するには直4エンジンではもはや不可能だった。
多気筒化により回転数が上げられシリンダーの表面積が増えて冷却も優位になり更にツインターボ化でレスポンスも向上する。既にF1の世界でもフェラーリ、ルノー、ホンダ、TAGポルシェなどV6ツインターボ勢が圧倒的優位に立ちブラバムでチャンピオンエンジンとなったBMW直4ターボが劣勢になっていた。
84年WECでの惨敗がその後の日産ニスモの原動力となり最後のシーズンの85年WEC JAPANでフロックかもしれないがその末尾を飾る2位表彰台を得たことは優勝したシルビアよりも嬉しかったことを思い出します。私は現地のグランドスタンドにいました。

ご愛読ありがとうございました。

85年WEC IN JAPAN
幻のミッドスポーツ日産MID4先頭のフォーメーションラップ。慣熟走行のため10周もフォーメーションラップがあった。優勝のシルビアターボC以下スカイラインターボC、ニューマンポルシェ、アドバンポルシェ、トヨタトムスが続く。ロスマンズポルシェは既にピットインしている。

85年東京モーターショー日産パンフレット

おまけ
NISSAN MID4
イメージスケッチ
85年 東京モーターショーに参考出品されたMID4
同様の4WDシステムを持つポルシェ959を意識していた。959は83年のフランクフルトモーターショーで発表され市販は86年からになる。


日産MID4ペースカー
ショーモデルにはないリアスポイラーにNISMOのステッカーが貼られている。最初の5ラップ慣熟走行ではポルシェワークスのハンス・シュトュック選手がドライブし協議後の10ラップフォーメーションラップでは当時日産レーシングスクール校長辻本征一郎氏がドライブ。豪雨の中をかなりのハイペースで隊列を引っ張っぱりレース途中ではセーフティカーとしても活躍した。TBSテレビの中継番組スポンサーの関係からタイヤはブリヂストンポテンザ。85WEC JAPANだけのスポットペースカー。名目上はWRCグループSに参戦するためのプロトタイプカーとして開発されたがグループS構想は消滅した。また84年に発売されていたトヨタMR2に対する日産としての対抗意識も垣間見える。
企画開発は日産テクニカルセンター商品開発室車両開発統括部長の櫻井真一郎氏。ATTESA4WDにVG30DEを搭載し市販化も期待されたがお蔵入りになり87年にはMID4Ⅱがモーターショーで発表されるがこちらもお蔵入り。個人的にはⅠ型の方が好き。ホンダNSXより5年早かった。現在は日産系部品メーカー高田工業でリアスポイラー付きのレッド(元はフランクフルトショーのベージュだがレッドに上塗りされた)が保管されている。
東京より前のフランクフルトショーで初公開されたベージュのMID4。ドイツではタクシーの色なのが不評だった。斜め後方の視界は絶望的。
日産MID4 IMSA仕様 
85年東京モーターショーに展示されたがスペックなど現存も不明。ボディワーク以外の違いはマフラーが左右二本出しでリアウイングステーの間にオイルクーラー?が設置されていた。サイドミラーが付いていないほか一本ワイパーになっている。タイヤはダンロップスリック、ホイールはBBS。シルビアターボCと並んで展示された。
スーパーシルエットのBMW M1に似たスタイリング。
東京モーターショー
フランクフルトモーターショーパンフレット掲載のMID4。ボンネットのスリットやピラー、ドアノブ、サイドインテーク、ホイール、フロントバンパー、フォグランプ無しなど外観が微妙に違う試作車か?ヘッドライトもZ31フェアレディZタイプのパラレルライズアップ。
フランクフルトモデル 
テールランプのデザインはかなり違う。追浜のテストコースで行われたジャーナリスト向け試乗会ではリアスポイラーの付いたベージュとこの車体が使用された。
追浜での試乗会より
モックアップモデル。ホイールやサイドミラー、サイドマーカーランプが東京と違う。後付感たっぷりのフォグランプが無い方がいい気がする。フェラーリ308かロータスエスプリを彷彿させるクラシカルなエクステリアの評価は芳しくなかった。フェラーリはこの時期テスタロッサがフラッグシップモデルである。
モックアップモデルのテール。マフラーがセンター2本出し、ナンバープレートがオフセット、テールレンズにスモークがかかる。
フロントのボンネットスペースにスペアタイヤやバッテリーなどが収められる。タイヤサイズは205/60/15。当時50扁平は運輸省の許可が降りていなかったためPS13シルビアと同じタイヤサイズになってしまった。

ペースカーはその後の東京モーターショーで展示されたのと同一か?高田工業によれば6~7台制作されたらしい。モーターショー展示車はダンロップタイヤだったのでペースカーとは別の車体かも?IMSA仕様も含め全て右ハンドル車。85年ナゴヤモーターフェスティバル、86年のシカゴオートショーでもレッドが展示された。
時代的にはいわゆるバブル期の初期段階でありアルミボディV6NAのNSXが800万円、直6ツインターボ4WDのBNR32GT-Rが450万円だったのだからV6ノンターボに4WD4輪ストラットサス、ミッションはブルーバードマキシマの流用強化なら700万円程度で市販出来たのではと思うが日産の熱意が足りなかったということだろう。尚、トヨタMR2 AW11型は84年6月に発売されている。
ミッドシップ横置きに搭載されたVG30DE型エンジン。230psを発揮したが後にF31レパードやZ31フェアレディZに搭載される際にはデチューンしていた。
車両制作の高田工業スタッフ

NISSAN MID4Ⅱ
87年 東京モーターショー発表の日産MID4Ⅱ
横置VG30DEから縦置VG30DETTツインターボエンジンへ大幅なパワーアップを遂げる。330psのパワーを4WD4WSとFダブルウィッシュボーンRマルチリンクサスペンションで受け止める。
スポーツカーだった先代からスーパーカーに変貌してしまい市販化の夢は霧散した。


330psのVG30DETTを縦置きに搭載。
東京モーターショーモデル
後方にHR31リコースカイラインが見える。
写真のシルバーとレッド以外にホワイトカラーがあった。シルバーが日産ヘリテージコレクションに保存されている。3台とも左ハンドル車。ジャーナリスト試乗会ではサスペンションの熟成とツインターボの熱対策に課題があったようだ。その際ドリフトでコーナーリングするMID4Ⅱを見た櫻井氏は「あんなことをするために作った車じゃないんだけどな」と呟いた。


参考資料
日産自動車
日産プリンス自動車販売
ニッサンモータースポーツインターナショナル
日産ヘリテージコレクション
プリンス&スカイラインミュージアム
ハセミモータースポーツ
ホシノインパル
セントラル20
都平健二オフィシャルサイト
童夢
トムス
マツダ
トラストレーシング
チームルマン
スピードスターレーシング
ノバエンジニアリング
ムーンクラフト
横浜ゴム
ダンロップモータースポーツ
ブリジストンモータースポーツ
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