1983年 WEC JAPAN
世界耐久選手権シリーズなので11番が塞がっておりゼッケン10番。

戦績
6月5日 富士ロングディスタンス 第一戦
富士500キロ
44周リタイア サスペンションアクシデントによるクラッシュ。1コーナー進入時に左フロントタイヤ脱落。
この時点でCカーはトラストポルシェ、スカイライン、セリカ82Cの3台のみ。38台出走でスターレット、サニー、シビック、RX-7などツーリングカーのエントリーが主だった。
オープニングラップのスタートで先頭に立ちストレートまで帰ってきたがコントロールライン手前でトラストポルシェに交わされラップリーダーは記録されなかった。

7月24日 富士ロングディスタンス 第二戦
富士1000キロ
139周リタイア トラストポルシェのトラブルにより途中ラップリーダーに立つもオーバーヒートでストップ。
ガスチャージとドライバー交代でピットイン中のスカイラインターボC

8月28日 全日本耐久選手権 第二戦
インターナショナル鈴鹿1000キロ
予選6位
決勝106周リタイア インジェクショントラブル
走行距離約640キロは最長。

10月2日 全日本耐久選手権 第三戦 WEC JAPAN 富士1000キロ
予選16位
決勝88周リタイア オイル漏れ
ターボトラブルでユニット交換に1時間弱を浪費し再スタートしたが最後はエンジン本体のトラブルでリタイア。

11月27日 富士ロングディスタンス 第三戦 
富士500マイル
29周リタイア オイルポンプトラブルによるオーバーヒート

(富士ロングディスタンスシリーズは予選なし)(全日本耐久と富士LDは84年まで別々のシリーズとして行われていた)

WECJAPAN以外のレースは全てトラストポルシェが優勝し当面のライバルトヨタトムスも2度2位を獲得しているが日産勢は表彰台はなく最高位はWECJAPANでのシルビアターボC7位完走でWECの国産車としては最上位だが優勝のロスマンズポルシェからは27周遅れ。結果としては散々な成績に終わるが日産としてはWECの結果に満足したのか直後の東京モーターショー日産ブースでシルビアターボCは誇らしげに展示されていた。
1983年東京モーターショー日産パンフレットに掲載された日産グループCカーの編隊走行。

スカイラインターボCは参戦5レース全てリタイアに終わってしまう。原因はエンジントラブルの多発。LZ20Bに全く信頼性がなかった。元々ノンターボのラリー用に開発されたこのエンジンはバルブ間が狭くボアも限界まで拡げていたため(6気筒換算なら3.1L相当)シリンダーに冷却水路が確保出来なかった。リアオーバーフェンダー内にラジエターはあるがフレッシュエアは届かず左右ドアを薄くして開口部面積を拡大したが冷却が追い付かなかっただろう。更に直4エンジン故か振動も激しく補機類や電装系にダメージを与えるマイナートラブルも少なくなかった。ターボ化による耐久レースでの使用など全く考慮していない設計のエンジンなのだからこの結果は致し方ないのだが問題は新型エンジンFJ20型の開発が遅延し84年シーズンもLZで臨まなければならなかったことだろう。
WEC JAPAN

ボンネット左側の突き出ている箇所はウエストゲートバルブ。発熱でフロントガラスが割れるトラブルがあったのでWECからカバーが付けられた。フロントは巨大なチンスポイラーでもダウンフォースは足りなかった。フロントフェンダー上部には効果の疑わしい整流板。

仮にエンジンに問題が無かったとしてもFRレイアウトのCカーで車体重量1026キロとポルシェ956の850キロと比較しても勝ち目はないが人気だけは高かったのでスポンサーや日産にとっては成功だったかもしれない。
LZ20Bターボエンジン
エンジンレイアウトがよくわかる。
手前がオイルクーラー、その奥がインタークーラー、エキゾーストパイプの下にタービンが見える。エンジン本体はフロントミッドシップマウント。ライトの横にブレーキダクト。リアサスペンションは途中からダブルウィッシュボーンに変更されたがフロントはストラット。
キャラミ仕様のシェイクダウン時にリアカウルを外したところ。トランスアクスルミッションとミッションオイルクーラー、ディフューザーが見える。白いホースはリアブレーキダクトホース。まだグループ5カーなのでリアサスペンションはセミトレーリングアー厶。
幻のマシンR383とスーパーシルエットスカイラインG5とスカイラインターボC。全幅全高がかなり違う。
3台の後方にシルバーのR30型スカイラインが見える。84年5月22日LM04C新型スカイラインターボC発表会でのフォト。まだFRターボCは現存していた。

83年8月のR30型のマイナーチェンジで通称鉄仮面に変更されたのに伴いスーパーシルエットも鉄仮面になったがターボCは変更されなかった。
スーパーシルエットレースは84年まで開催された。富士スピードウェイでの予選タイム比較ではSSのベストタイムは83年10月23日に行われたSSシリーズ予選の1.20:49でポールポジションでした。ターボCはWEC JAPAN予選の1.19:86で僅かながらターボCが速い。FR車としては当時のレイアウトの富士スピードウェイで最速タイムだったか?参考までにポールポジションのワークスロスマンズポルシェは1.10:02(コースレコード)シルビアターボCが1.13:29とスピードの差は歴然としていた。
鈴鹿サーキットでの比較だと83年鈴鹿1000キロと鈴鹿グランプリの予選タイム比較ではターボCが1.2秒ほど速かった。

83年WEC JAPANでのロスマンズポルシェ956
82年からデビューした956とそのエボリューションモデル962Cでル・マン24時間レース6連覇を成し遂げ文字通りグループCレースを席巻した。当初は2.65Lだったが962C最終型では3.2Lまで拡大された。国内ではポルシェ対トヨタ、日産が、WSPCやル・マンではポルシェ対ランチア、ジャガー、メルセデスの図式がレースを盛り上げた。24時間で5000キロ超を走破するために開発されたのだから6時間1000キロレースなど956にとってはスプリント感覚だっただろう。
86年レノマポルシェ956で参戦した都平選手は「乗りやすいし速いしその頃の日産Cカーとは比べものにならない」と語っていた。

FISCOで給油中?時期ははっきりわからないがステッカーから判断するとグループCに改造したかなり初期と思われる。11のゼッケンも実戦では使われていないタイプ。シェイクダウン時の仕様だろうか?
トミカダンディのノベルティB5下敷きにこの仕様のショットが使われていた。

その後のスカイラインターボC
84年シーズン、ハセミモータースポーツは新型マシンで参戦することが決まっていたのでこのマシンはサーキットに現れることは二度となかった。84年1月14日〜16日に晴海国際展示場で開催された第二回東京エキサイティングカーショー現在のオートサロンの日産ブースでシルビアターボC、フェアレディZターボCと共に展示されたのが公の場での最後となりました。前述の通り5月に富士スピードウェイで新型スカイラインターボC/LM04C発表会がありSSスカイラインやR383と共に報道向け撮影会が最後の姿でした。シルビアとZは同じマシンで84年も参戦します。その後は各地のディーラーやイベントなどに貸し出され展示されることもあったようです。
G5スーパーシルエットスカイラインは現存しニスモフェスティバルでも元気な姿を見せてくれますが残念ながらターボCは後に破却処分されてしまったそうです。シルビアターボCは動態保存されていますが。
長谷見選手の後年のインタビューによれば「あのマシンは日産本社の許可を得ないまま作ったから残しておくと追浜が困るので処分されてしまった」と語っていました。



鈴鹿1000キロ
ゼッケンの手前がインタークーラーからのエア排出口。オーバーフェンダーの張り出しが凄い。全幅1998mmで現代の日産GT-R市販車より約100mm拡い。

成績は全く奮いませんでしたがファンからの人気も高く個性的なマシンでした。このマシンからその後のル・マン挑戦やデイトナ、JSPCでの日産グループCカー栄光の礎となったことは間違いなく忘れることの出来ない一台である。
富士1000キロ

長谷見昌弘選手の後日談
南アフリカ共和国のキャラミサーキットでデビューしたこのマシンは日産のグループCカーの原点のような車です。グループCカーでは非常に珍しいフロントエンジンの車。すなわちエンジンやタービン、インタークーラー等熱源がすべてフロントに集中しているという事。800℃近いこのエンジンルームが目の前にあってそれを隔てているのはたった1枚のアルミ板のみ。エギゾーストパイプも運転席のすぐ傍を通っていた。にもかかわらず熱対策は皆無でドライバーにフレッシュエアーを送るエアダクトすら取り付けられていなかったんだ。急ピッチで製作し十分な準備もできず現地に持ち込んだので走らせるので精一杯だったからね。今まで乗った中でドライビングする環境の最も悪いマシンだった。そんなマシンで気温40℃を超える南アフリカで9時間耐久レースをするっていうのだから参ったね。国内に持ち帰ってからは自社工場であるハセミモータースポーツでメンテナンス出来る様になっていろいろ改善できた。当時のライバルはポルシェだったが速さや信頼性の面で大きく水をあけられておりレースでは全然敵わなかった。だけどこの車があったからこそ後に大活躍する日産のグループCカー達がある。辛い思いもしたけれど僕の中では非常に思い出に残るマシンの1つです。
都平健二選手の後日談
車内がすごく暑い。エンジンと足元は鉄板一枚で仕切られているだけだから全身をエンジンの熱が包み込むように感じた。コックピットの窓も小さく走行中に風が車内に入ることなく灼熱のサウナ状態。LZ20Bは耐久性がなくリタイアに終わったが長谷見くんと一緒に走れたことは思い出。

82年8月 キャラミ遠征前の富士でのシェイクダウンを長谷見昌弘選手が担当。

第三回へ続く