インド生活記 What's up, Vizag? -2ページ目

インド生活記 What's up, Vizag?

旧ブログ名【インド・大学院留学 〜Hi, ハイデラバード〜(2011.7-2013.6)】
インドHyderabadのUniversity of HyderabadでMA(一応修士号)を修了した筆者が、今度はNGO職員として赴任したVizag(バイザッグ)ことVisakhapatnam(ビシャカパトナム)での生活を綴ります。

最後にブログを書いたのが夏の思い出の話だったのに、もう冬がそこまで来ている。ビシャカパトナムも気温がだいぶ下がり、薄着で寝ると朝は少し寒い。


いまさらだけど、ハイデラバード大学を無事に、正式に卒業しました。

10月の頭に卒業式があって、そこで正式に卒業。そのあと、すぐにブログでも書こうかと思ったんだけど、なんだかんだで一か月半も経ってしまった。なので、卒業したことにしろ、ブログを書くことにしろマジで今更感がハンパないというか、もはや今更感すらないんだけど、まだ書いてなかったので一応書くことにした。


インドの大学の卒業式がどんなものか?

とりあえず、服装は欧米風?のガウンに、あの四角い帽子をレンタル。

そして、大学の近くでホールでその年の卒業の修士も博士(うちの大学は学部生はいない)も全員集まるという感じ。


博士課程修了者は全員名前を呼ばれる。
修士課程は代表だけが呼ばれて、残りの学生は事務の人から卒業証書をもらうという、なんとも事務的卒業式。

式典が終わり、事務の人から卒業証書を受け取る。


おれの卒業証書はなかった。


そう、事務曰く「留学生は卒業式に来ないと思った」ので、おれの卒業証書は会場まで運ばれていなかったのだった。


おそらく入学当時のおれなら、なんと言って良いかわからず、ただ黙るしかなかっただろう。

おそらく一年前のおれなら、事務にブチ切れて、「おめーら、ふざけんな。いくら払ったと思ってるんだ?このうんこ野郎」と言って、退学になっていたかもしれない。
(卒業式への参加費、というか卒業証書の値段は、インド人がRs.250ルピー(約400円)で、留学生は75USドル(約7500円))


しかし、いまのおれはすでに悟りを開いていた。
すでに知っていたのだ、「何事もない、、、わけがない」ということを、、、

そもそも、この事務の連中はおれが来ることなんて信じてなかったので、おれを卒業式の参加者リストに入れていなかったのだ(申し込んだのに)。

そして、直前になってそれに気が付いたハイデラバード生活で最大の恩人であるマハムドが、卒業証書はともかく卒業式には参加できるように事務に怒鳴り込みをかけてくれたおかげで、卒業式にはぎりぎりで参加できたという、、、まさに持つべきものは友事件


同じく卒業式にやってきたアメリカ国籍のインド人の友人は、普通にインド人でインドに住んでるのに、扱いは留学生だからリストに登録されてなくて卒業式に参加できなかった。


卒業式が終わり、大学の事務に卒業証書を取りに行くと、
準備が出来ていないという(本当は出来ているんだけど、人が多かったから)

そして、悟りを開いているおれは冷静に(でもやっぱり少しキレ気味に)言った。

おれ:「あなた方、もしもおれが日本からわざわざ卒業証書を取りにきても同じことを言うんですか?」

事務:「おまえ、vizagに住んでるんだろ?スピードポストで送るから安心しろ。(Visagにいることはマハムドがすでに伝えていた)」


このときのおれは、既に怒りなどなかった。どちらかと言うと、あぁ、やっぱりか。という、店頭に並んでいない商品の在庫を一応店員に確認したところ、店頭に並んでいるものだけ。と言われたときのような、そんなやるせなさが込み上げた。


卒業式なのに、卒業証書がない、という切なさに溢れる卒業式ではあったものの、5月に大学が終わってこれだけ日が経っているため、別れの切なさはゼロで、むしろ再会的な要素が強かった。

仲間たちはそれぞれの道へ進んでいる。大学院での勉強を続ける人。外資系銀行に務める人。官僚になるための試験勉強をしている人。NGOを立ち上げた人。いまは何もしてない人。ハイデラバードに残る人もいれば、デリーに行く人もいれば、実家に帰る人もいる。


仕事でインドに残ってるからと言って、友人たちにいつでも会えるわけじゃない。
インドは広い、
でもきっと、世界は意外と狭い。
いつでも会えるわけじゃないけど、いつか会える。
それはこの二年間が、おれがどこか別の世界に行っていた二年間ではなくて、単純におれの人生の中で大切な二年間だったというだけのこと。
この狭い地球を人生の舞台と考えれば、日本を離れてハイデラバードの大学に行くのは、実家を離れて東京の大学に行くのと本質的には変わらないのかもれない。

そんなことを感じた、ハイデラバード大学の卒業式。いまさらながら、卒業おめでとう。
日本滞在中の8月16日、おれは初めて甲子園に行った。

木更津総合 対 西脇工業


仕事が休みだった16日に、ちょうどおれの地元千葉代表の木更津総合と、勤務先である兵庫代表の西脇工業という試合があった。これはきっと、高校の頃は一度もおれに振り向かなかった野球の神様が、甲子園を見に行けと告げているに違いない。試合の日程と休みがたまたま重なっただけではなくて、千葉県大会でおれの母校は、この木更津総合を相手にコールド負けで散ったのである。


試合開始のちょうど前に甲子園に着くと、すでに内野席、アルプス席(応援団がいる後ろらへん)はすべて売り切れだった。あとは、入場無料の外野席に行くしかない。ただ途中で帰る人もいるので、席が空き次第追加販売をしているらしく、少し待っていると木更津総合側のアルプス席をとることができた。

甲子園は暑かった。球児らはこの暑さの中で戦っている。相手と仲間と、そして自分と。



この男たちは、いまどんな気持ちで、マウンドに立ち、守備につき、打席に立ち、ベンチを暖め、そして応援席で声を張り上げているんだろう。

そんなことを考えていると、あの夏の記憶が蘇る。



高校野球最後の試合、おれはベンチにいた(つまり補欠組ということ)。うちの高校の野球部は、甲子園に出られるような高校じゃない。(県の大会では2、3回戦くらいまでは行くレベル)そういう高校でベンチだったということは、高校野球をやってる中では、おれはかなりヘタクソの部類に入るということ。ただ、高校野球の良さは(高校野球だけじゃないけど)、そんなヘタクソでも本気で練習してしまうし、誰もが甲子園に憧れる。そして、その高校球児のバイブスが多くの人を巻き込む。だからこそ、甲子園の価値は、高校球児にとっては絶対的なもので、その輝きはいつまでたっても消えない。だから、多くの人にとって甲子園っていうのは、単なる球場じゃなくて、今の自分と高校時代の自分、または今の自分と息子や娘が高校時代だったときの自分をつなぐ、聖地なのかもしれない。


高校野球では3年生の夏を、最後の夏、という。

最後の夏が終わった日、野球部の監督の先生が、おれともう一人の友人に、

「試合に出してやれなくて悪かった」

と言った。(最後の夏はボロ負けが確実の場合情けで3年を出してくれるということもある、でも負けた試合はかなり接戦だった)

おれと、その友人、そしてその日重要な場面で代打で出た友人は、3人で「瀬戸際トリオ」というのを組んでいた。思い返してみると、最初は選手になれるかなれないかの瀬戸際だったのが、だんだん試合に出られるか出られないかの瀬戸際になって、おれに関していえば夏の時点ですでに瀬戸際ではなく試合に出られないのがふつうになっていた。そんな瀬戸際ライフとも、さよなら、、、(と思ったら受験でも瀬戸際だった)


その日の帰り道、別に寝ていたわけでもないのに電車を乗り過ごした。

いまでこそ酔っぱらって電車を乗り過ごすことや、眠って乗り過ごすことはよくある。
(甲子園に行った帰りも寝過ごした)

でも高校の頃は、寝過ごすなんてめったにないし、この日に限っては起きているのに乗り過ごした。
夏が、そして野球が終わったという事実が、実感なくふわふわと漂っていたんだと思う。しばらくすると、結局試合に出れなかったという悔しさ、そしていままで野球をずっとやらせてもらったのに、試合に出られなかった申し訳なさでいっぱいになった。野球は金がかかる。金だけじゃなくて、時間もかかる。いま思えば、おれが小学校で野球(ソフトボール)を始めたころは親たちはまだ30代だった。そんだけお金も時間も使ったのに、結局おれが試合に出なきゃ意味ないじゃないかと、情けなくなった。

駅に着く頃、母から来ていたメールに気付いた。
「息子が高校野球をやるのを見れて楽しかった。この経験をバネにこれから自分が進む道でしっかり頑張りなさい。」という内容だった思う。(そしてとりあえず自分の道を進んでみたら現在なぜかインドにいる、、、笑)

思えばこの夏が、これからのことを自分で考えた、最初の夏。
この頃思ってたのは、とりあえず残りの高校生活を満喫すること。それと東京に行きたいというのと、アメリカに行きたいということ。(そして、なぜかいまインドにいる)


だから、おれは全国の高校球児に言いたい(このブログを見てるわけないんだけど)。

「とりあえず、お疲れさま」

それから、

「おまえらが最後の夏だと思ってるこの夏は、実は最初の夏だぜ」

と。

甲子園は、高校球児にとって、その家族にとって、そしてその球児たちを陰で支え、応援する多くの人にとって、ニッポンの夏。


あの頃は縁のなかったそんな場所に、7年越しで連れてきてくれた野球の神様に感謝して、夏の話はこれでおしまい。
地球は水の惑星というように、もしある宇宙人がおれたち(ヒトを含む地球上の生物)を見たら、おれたちは、その宇宙人にとっては形を変えた水というか、水の一部でしかないのかもしれない。物質的に、人間の体の70パーセントが水なわけで、水なしで生きることはできない。しかし、超高度な知能を持った宇宙人にとって、“個体”としての定義が、その機能の維持においての他の存在からの独立だとすると、水どころか、植物や動物なしで機能することができないヒトを含む地球に生息するすべての生命体は、水という物質の一部であって、宇宙人にとっては、ヒトやゴキブリやジャガイモはおろか、太陽の光なしで、その機能を維持できない地球でさえも、太陽系という“個体”の、器官や細胞の一つでしかないのかもいれない。

だけど、もし宇宙人がいきなり地球にやってきて、

「おまえたちは太陽系という個体の細胞に過ぎない」

と、言って来たら、おれはこう言い返すだろう。

「おまえらもどうせ宇宙なしでは生きられないくせに」

と。そうしたら宇宙人はなんて言ってくるだろうか?

「黙れ低能ども」とか、

「私は、すごく脚が速い(もしくは瞬間移動ができる)」とか、

「私の戦闘力は53万です」

と言ってくるに違いない。

そして、その宇宙人に逆らったサムライたちは、いとも簡単に殺されてしまう。
(もちろん、宇宙人は第一形態のまま)

宇宙人に最後の牙をむいたのは、人間や大型哺乳類ではなくゴキブリだった。ゴキブリは、人間やライオンが生まれるよりはるか昔から、この星を守り続けている。

ゴキブリの必死の抵抗も虚しく、地球の生命体は全滅した。

宇宙人は、地球を破壊して、新たな惑星へ向かう。

そして、近隣の惑星の破壊を続ける。銀河系内の交信すら出来ない(地球人を含む)ここの住民は、この宇宙人に対抗する術など持ち合わせていない。

銀河系のあらゆる惑星を破壊した。銀河系はなくなった。

そして、宇宙人は次の銀河へ向かう。


しかし、なぜ戦闘力53万もあり、知能もほかのあらゆる生命体に勝る宇宙人がわざわざ銀河系にやってきたのか?

実は、宇宙人も個体ではなかった。つまり、他者を通してしか自分自身を機能させることができなかった。しかし、超高知能な宇宙人は、自らが個体ではないということには気が付かなった。確かに、超高知能な宇宙人は、他者に頼らず生命を維持することは出来た。このことが、宇宙人自身の個体の定義である、“その機能の維持においての他の存在から独立”という点で、自らを“個体”であるとの誤解につなげたのだった。

宇宙人は自らの機能が、他の生命体と同じように、生命の維持や遺伝子の伝達に限られると勘違いをしていた。しかし、超高知能の宇宙人には、その知能レベルゆえに、生命の維持や遺伝の伝達以外の、さまざまな機能がプログラミングされていた。そして、その様々な機能-例えば低知能の生命体の破壊など-は、他者を通してしか果たすことのできない機能だった。

宇宙人は、自らの機能を維持するため、他者との関わり続けた。そして、その度に、他者とのかかわり無しで生命を維持できる自らが真の“個体”だととして、他の存在無しでは生きることができない生命体の無能さを嘆き、自らが支配者となり、破壊者となった。それは、まるで、自分がこの宇宙の生命体の中で唯一の“個体”であることを証明することが、この宇宙人の機能そのものかであるように、、、

たった数億年で、宇宙人は宇宙上すべての生命体に、自らが宇宙の生命体で唯一の個体であることを知らしめた。視覚のある生命体、聴覚のある生命体、触覚のある生命体、生命体の知能によって交信の方法は様々だったが、宇宙人は、この宇宙での交信手段の全てを持ち合わせていた。時には星そのものが生命体だったこともあった。そういった星を含めて、すべての生命体の中で、他者との関わりなく生命の維持ができる生命体は、この宇宙人を除いてほかにいなかった。宇宙人は、すべての生命体との交信し、自らから優位性を認めさせ、支配し、そして最終的にはそのすべてを破壊した。

宇宙から他の存在がいなくなった。宇宙人は、他者との関わり無しで生命の維持ができる自らが、この宇宙の生命体で最高の知能を持つ、唯一の“個体”であることを終に証明したと信じた。宇宙人は、他の存在との関わり無しに、生命の維持をすることができた。しかし、宇宙人にプログラミングされた個体として機能は、生命の維持だけではなかった。他の存在のいない宇宙で、宇宙人の“個体”として機能は完全に失われた。彼の生命の脅かすものはなにもなかった。そして宇宙人は、永遠の塊となった。