28、チェ・インギュ監督と「授業料」 | 「日韓次世代映画祭」「下川正晴研究室」「大分まちなかTV」ブログ

「日韓次世代映画祭」「下川正晴研究室」「大分まちなかTV」ブログ

下川正晴(大分県立芸術文化短大教授、shimokawa502@gmail.com 携帯電話090-9796-1720、元毎日新聞論説委員、ソウル支局長)。日韓次世代映画祭は2008年開始。「大分まちなかTV」は、学生と商店街のコラボ放送局です。

大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログ大分発!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログここでは、金信哉の夫であるチェ・インギュ(崔寅奎)が監督した「授業料」(1940)を取り上げます。フィルムが残っている「家なき天使」(1941)の前提になる重要な作品だからです。もちろん、金信哉が出演しています。

その前に、3本の映画を紹介します。1939年、金信哉は最初の女児を出産した後、映画「無情」(パク・キチェ監督)と「愛恋頌」(キム・ユヨン監督)に出演します。いずれも助演程度の軽い役柄です。「無情」では、夫のチェ・インギュが録音を担当しました。有名な小説家イ・グァンスの原作。「愛恋頌」では主役の文芸峰の学友という役でした。

続いて1940年、金信哉は「水仙花」(キム・ユヨン監督)と「授業料」(チェ・インギュ監督)に出演します。「水仙花」は、主演の文芸峰の家で働く21歳の「聡明な女性」役でした。

さて、「授業料」です。この映画はフィルムは残っていませんが、多くのスティール写真があり、韓国映像資料院編「高麗映画協会と映画新体制」(韓国映像資料院、2007)という本に多数収録されています。

この映画については、韓国の映画評論家である李英一さん(イ・ヨンイル、故人)が佐藤忠男さんとの共著「韓国映画史」(凱風社、1990)で、詳しく紹介(212~213ページ)しています。個人的な体験を交えた、いい文章なので、全文を転載します。

   **********

●映画「授業料」
監督:崔寅奎(チェ・インギュ)
脚本:八木保太郎 (台詞)柳致真(ユ・チジン)
撮影:李明雨(イ・ミョンウ)
封切:1940年
製作:高麗映画協会
配役:少年ウ・スヨン=鄭燦朝(チョン・チャンジョ)
スヨンの母=文芸峰(ムン・イェボン)
スヨンの父=金漢(キム・ハン)
スヨンの祖母=ト恵淑(ボク・ヘスク)
スヨンの伯母=安泳玉(アン・ヨンオク)

高麗映画協会製作の「授業料」(1940)は、「国境」(1939)でデビューした崔寅奎監督の2作目でありる。この作品は、全羅南道の光州北町小学校4年生のウ・スヨン少年が書いた生活記録の作文を原作にしている。この生活記録は当時、京城日報小学生新聞に当選した懸賞作文だった。脚色は日本人のシナリオ作家八木保太郎、台詞は劇作家の柳致真が担当した。

私(李英一)は小学校3年生の時に、中国の天津で、この映画を見た。幼かった私は「授業料」を見て、主人公の少年が悲惨なまでに貧しい暮らしを営む姿に涙を流した。そして涙を流す一方で、憤りがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。

このころからすでに、私は映画が大好きだった。天津にある色々な劇場に行っては、中国映画、日本映画、西洋映画をよく見た。少年時代に私が好んで見たものが、活劇調の娯楽映画だったせいか、「授業料」を見て私が抱いた憤りというのは、「朝鮮映画はなぜこんなに悲惨なんだろう。なぜこんなに泣かせるのか?」という思いから来るものだった。しかし半世紀が過ぎた今、「授業料」が鮮明に残してくれた映像の記憶は、限りなく美しいものである。

「授業料」は、韓国映画で初めて少年を主人公にした作品で、少年の生活を通してその時代の社会相を描き出した作品でもあった。

この映画は、光州の小学校に通うスヨン少年の貧しい生活と、美しい心を描いている。スヨン少年にとって最も辛い日は、学校で授業料を集める日である。担任の先生が「授業料を持て来なかった者は立て」と言うと、方をすくめて毎度のように立たなければならない。

家は食べることすら難しいほどの貧困にあえいでいる。父と母は真鍮の箸と匙を作って売る商売をしているが、いつも遠い地方へ行商に旅立ち、何カ月も家に戻ってこない。荘園は70歳を過ぎた祖母と共に暮らしている。授業料を払えず、食べ物にもありつけない時は、大声で叫びたいほど両親が懐かしい。身体の悪い祖母を思って、寂しさに耐える少年の姿が実に哀れだ。

仕方なく、光州から60里(日本の6里、24キロ)も離れた長城の伯母を訪ねてゆく。伯母さんに事情を話して授業料と食料をもらうのである。60里もの道程を歩いて往復するスヨン少年の話を聞く伯母も、気の毒に思って泣いてしまう。

一方、スヨン少年のこのような事情を目のあたりにして、同じ学級の少年たちが友情の箱を作り、少しずつお金を集めて助けてあげたりもする。しかし、友達の助けだけでは、滞納した家賃は払えない。家主が家賃を催促に来たりして、苛酷な現実は少年の胸を切り裂く。

ところが秋夕(中秋節)の数日前、行商中の両親から手紙と共に5円のカネが送られてきた。手紙には、いまは戦争中だから真鍮の箸と匙は作れず、全羅北道の片田舎で日銭を稼いでいる。秋夕には家に帰ると、書いてあった。そして秋夕の日、夢の中で見たことと同じように、両親は少年と祖母のもとに帰ってくる。少年には新しい服を作ってくれた上に、学用品と授業料を渡してくれる。しかし少年にとっては、喜びよりも悲しみのほうが大きい。なぜなら両親は再び遠いところへ行ってしまうからだ。

崔寅奎監督は少年の純粋な心を通して、苛酷な現実を切実に描いている。しかしながら児童物にありがたいなセンチメンタリズムには陥っていない。崔監督は、少年の現実の生活を克明にリアリズムタッチで描写することにより、センチメンタリズムに埋没させることなく、少年の心を浮き彫りにした。

撮影は名カメラマンと言われた李明雨が行った。淡々とした写実的描写の中にも、たとえば戦争中であるために、少年の両親が真鍮の品物を作れず、やむなく他の地方まで行って日雇いや行商に渡り歩くという設定などを考えると、この映画が30~40年代の時代状況を鋭く弾劾していることがわかる。

崔寅奎は羅雲奎、沈薫、李圭煥ら20~30年代の先輩監督に続いて、リアリズムの流れを引き継いだ、40年代の代表的な監督だ。彼は「授業料」に次いで、もう一つのリアリズムの秀作「家なき天使」を1941年に発表した。