人間にとって最高の自由とは

 

 今使われている自由という言葉もみんな理念ことばですから、いろいろ勝手に使われているわけで、そういう時に日本語ならばほどこしを受けたとか、ほどこしの中にいたとかいう言葉なんでしょうね。ほどこされている、東北地方の言葉でほげほげになっているというか、溢れをいただいているところにいたということなんでしょう。

 

 これはキリスト教でいえば義人というやつで、神様と一つになって生きている人ですね。仏教の言葉でいえば成仏した人、仏様ですね。

自由なのは、

神様と仏様位しか自由にならない、

その神様の自由になり切った人が自由なんですね。あとは全部影ですね。影というか、それを 実現した程度だけ自由なわけですね。

 

 影の自由は今の観念ことばで言えば、自分の自我の響きしかないんです。自由とは神様、仏─あるいはアラーの神でもいいんですが─このかかわりにおいて出てくる姿を言うのであり、同時に人とのかかわりにおける姿を言うんです、自由っていうのは。

 

 人とのかかわりにおける自由とはどういうことかというと、本当に自分を受け渡して相手の神秘を、相手の立場で、神様の中に味わえるということです。自由っていうのはこれなんですね。人があなたにしたいと望むことをあなたも人にしろというのはそれですね。

 

 その逆は人を裁くな、意識の立場から人を見ていたら必ず裁いています。判断は裁きなんです。自分の意見で見るのですから、裁きなんです。そういう自分を完全に解放して、そしてその人の神秘の立場から、神においてその人を味わって受けとっている、これが自由なんですね。

 

 だからそれが出会いの世界で、そこでお互いに与え合うわけです。一番大事なものを与え合うわけです。忘れることができないものを、永遠なるものを与え合うわけです。これが自由の本当の姿です。だから自由というのは消えるものじゃないんです。消えてなくなる自由なんてないんです。

 

 だから言葉をかえれば、迷いの世界から、あからさまな真実の世界へいくということで、この迷いの世界。現象の世界から須弥山(しゅみせん)の世界へ移るということなんですね。

 

──『遠いまなざし』押田成人