国力が違うのに信じられない勝ち方をした。

$かつて日本は美しかった


 明治37年(1904年)2月8日 ~ 明治38年(1905年)9月5日の日露戦争での陸上戦の経過を追っていると奇跡に近いような勝ち方をしています。日本海海戦は奇跡ではなく勝つべくして勝った、ですが、陸上戦の南山から奉天に至るまでの戦闘は奇跡と言えます。

 旅順戦は別にして、だいたい南から北へ日本軍はロシア軍と戦っています。

 鴨緑江 -> 南山 -> 特利寺 -> 大石橋 -> 遼陽 -> 沙河 -> 黒溝台 -> 奉天

 鴨緑江は朝鮮と満州の国境でここでは日本軍は圧勝。南山は要塞化されており、苦戦しましたが、海上からの艦砲射撃により撃破。

 明治37年8月24日からの遼陽会戦で日本軍は既に弾薬不足(旅順を優先した)の状態で兵力もロシア22万5千に対し、日本軍は13万5千。火砲はロシア653門に対して日本は474門。これは勝てない。しかし第一軍・黒木為楨司令官は迂回作戦を展開し、少数でロシア軍を包囲しはじめます。この黒木軍の活躍は外国観戦武官も驚愕しています。日本軍は大損害を出しながらもロシア軍を撤退させることに成功します。

 10月8日からの沙河会戦もロシア圧倒的有利の状態で、日本軍は弾がない。そこで夜襲をかけます。そして右翼で閑院宮戴仁親王率いる騎兵第二旅団が機関銃で攻撃。左翼では秋山旅団がコサック騎兵に機関銃と騎砲を浴びせかけます。ここでロシアのクロパトキン総司令官の状況判断ミスがあり、ロシア軍が撤退。これには日本軍が一番驚きます。
 翌年、1月25日からの黒溝台会戦では日本軍左翼が手薄と気づいたロシア軍は大挙して殺到し、黒溝台を占領します。日本軍は増援部隊を派遣しました。そのため中央が手薄になりますが、ロシア軍中央の攻勢は行われず、29日には日本軍第8師団が黒溝台を奪回し、ピンチを脱しました。このあたりはロシア軍内の抗争があり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しく描かれています。

 明治37年(1905年)2月末、ロシア軍は奉天から南方へ向けて総攻撃を企画します。ロシアの総兵力37万に対して日本軍は旅順から第三軍を呼び寄せますが、それでも24万5千。2月27日、第三軍がまず動き、鴨緑江とともに東西包囲作戦を展開します。第三軍は乃木将軍率いる部隊です。ロシアのクロパトキン司令は西部に現れた乃木軍の出現に恐怖におののき、東部に回した部隊を戻すよう指示を出しています。乃木第三軍に従軍したアメリカ人記者スタンレー・ウォシュバンによると乃木軍の兵士たちが覚えたてのロシア語で「われらは旅順の乃木軍ぞ」と叫ぶと、ロシア兵は狼狽して抵抗を諦め、退却したといいます。
 奉天会戦は大激戦となりますが、時間がたてばたつほど兵力、火力とも少ない日本軍は不利となります。総司令部は秋山支隊わずか3千を大きく迂回させ敵側面をつかせます。猛烈な砂嵐で視界が不良の中、ロシアのクロパトキン司令は日本軍の主力に包囲されたと勘違いし、またまた撤退。日本軍は追撃を行い、ロシア軍捕虜2万を得ます。3月10日のことです。(後の陸軍記念日)日本軍の死傷者7万5千、ロシア軍9万。余談ですが、日本軍は脚気患者が多く、戦死者より多かったのではないかと言われています。

 奉天占領後、児玉源太郎満州派遣軍参謀長は東京に帰り停戦の段取りを依頼しています。もう弾がないのです。あとは連合艦隊の勝利を祈るだけとなります。

 これら陸上戦はほとんど奇跡に近い勝利の連続で、「坂の上の雲」に書かれている通り、秋山騎兵隊の活躍は見逃せないところでありますが、やはり国の存亡をかけての日本軍首脳、兵士の肝の入り方が勝敗を分けたと思います。不利な状況、そして大陸の過酷な環境下で黙々と国家の存亡をかけてわれわれの先人は戦ってくれたのです。今日、日本があるのは戦ってくれた先人のお陰です。唯唯、感謝です。



参考文献
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『日露戦争 陸上戦闘の研究』三野正洋
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る"日本人の真価"とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「黒木為楨」

添付画像
 日露戦争の経過(PD)

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

日露戦争_壱 http://www.youtube.com/watch?v=6gY4lHXoHTE

日露戦争_弐 http://www.youtube.com/watch?v=3jJnWlSWTHE

日露戦争_参 http://www.youtube.com/watch?v=3EcMGWAf1JU



本記事は平成21年11月27日記事「辛勝だった陸上線~日露戦争」を再編集したものです。


大東亜戦争は自衛戦争。

$かつて日本は美しかった


 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。

 東京裁判の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事で、パール判決書に次の一文があります。

「人道の基礎のうえに組織化された国際団体が存在するという前提の下に論を進めるならば、ある民族が自分に意に反して他の民族の支配下におかれるということは最悪の種類の侵略である。またかように侵略された被支配民族をかような侵略から解放するために援助する行為は、正当化しうるものとして容認しなければならない・・・本官としては、人道を基礎に組織された国際社会において、支配という侵略行為を受けている民族を援助する同様な行為を、同様に正当化しえないという理由を見いだせない」


大東亜戦争で日本は東南アジアに進出しました。それまで東南アジアは白人国家の植民地でした。日本軍が白人を追っ払いましたが、代わりに日本が支配者になるというものではなく、各国を独立させたのです。大戦中にビルマ(現ミャンマー)、フィリピンが独立し、インドネシアも独立の準備を進めました。「侵略された被支配民族をかような侵略から解放するために援助する行為は、正当化しうる」ということです。学校教育や「村山談話」、マスコミは大戦で日本がアジアを苦しめたと垂れ流していますが、国際法の権威であるパール判事は「正当」と判断しているのです。

 さらにパール判事はパリ不戦条約の条項に関するアメリカ議会での国務長官フランク・ケロッグ氏の答弁を引用しています。パリ不戦条約は「国際紛争の解決手段としての武力の行使を禁じる」条約ですが「自衛権」は認められています。条約を提唱したのがケロッグ氏です。

「ケロッグ氏は、自衛権は経済封鎖にまでおよぶことを説明している。この条約は自国の領土、属領、貿易あるいは権益を防衛する米国の権利を侵害するものではないと了解された」

日本はABCD包囲網という経済封鎖を受け、開戦にふみきりました。つまり、パリ不戦条約の意味からすると日本の戦争は自衛行為になるのです。アメリカが主導して行った対日経済封鎖は戦争行為であり、アメリカはそれとわかっていて仕掛けてきたのです。

 東京裁判は連合国軍最高司令官マッカーサーの名において行われました。そのマッカーサーは昭和26年(1951年)アメリカ上院で日本の戦争は自衛戦争だったと証言しています。
「日本には八千万に近い厖大(ぼうだい)な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。(中略)
 日本は絹産業以外には、固有の産物がほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。
 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」


 大東亜戦争は自衛権の行使であり、アジアを植民地から解放した戦争であり、決して侵略戦争ではありません。




参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)
 WAC「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一(著)

添付画像
 東京裁判の被告が収監されていた巣鴨プリズンの警備兵(PD)

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

ソ連とオランダは何をしたか。
$かつて日本は美しかった


 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。

 東京裁判の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事で、パール判決書にソ連とオランダについての言及があります。

「ソビエト社会主義共和国連邦およびオランダが、本件における訴追国であり、また両国とも日本にたいして自国側から宣戦したということを、記憶しておかなければならない。ソビエト連邦に関するかぎり、かりに自衛ということは、ある条件のもとに、戦争を開始することを容認するものであると解釈しても、同国の対日宣戦当時の事態が、防衛の考慮から必要となった戦争であるとして、これを正当化するような事態であったとはいえないであろう」

ソ連が昭和20年(1945年)8月8日に対日宣戦布告したという事実は結構知られていることでしょう。ほとんど日本が焦土化し、弱りきったところで宣戦布告し、満州に攻め込み、千島列島、南樺太を奪ったという火事場泥棒のような行為でした。オランダが先に対日宣戦布告をしたというのは意外に思う人が多いかもしれません。昭和16年(1941年)12月8日に宣戦布告しています。オーストラリアやニュージーランドも先に宣戦布告しているのです。

「(ソ連の行為は)すでに敗北した日本にたいする戦争の中に『方法を選ぶことも、また熟考の時間をも許さないような緊急かつ圧倒的な自衛の必要』を読み取ることは、おそらく困難であろう」

「攻撃を受ける危険のないところに、幾分でも防衛の必要があった - その必要が緊急なものにせよ、そうでないにせよ、圧倒的であるにもせよ、そうでないにもせよ - と判断するのは困難であろう。日本はすでに致命的に弱められソ連はそれを知っていた。1945年8月6日、日本は最初の原子爆弾攻撃を受けた」

パール判事はソ連の宣戦布告は自衛権の行使とは言えないと述べています。

「オランダの行為に関しては、もしわれわれが侵略ということについて、ジャクソン検察官が示唆したような判定の標準を受け入れない場合にかぎり、自衛の手段として肯定することができるかもしれない」

ジャクソン検察官というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で「侵略者」の定義をした人です。その定義の一番目に「他国に宣戦を布告すること」というのがあるのです。この定義を受け入れないのであれば「自衛」と呼べるかもしれない、と述べていますが、連合国側が侵略の定義をしておきながら、東京裁判でオランダの「宣戦布告」行為はスルーしているのですからおかしい話なのです。さらにパリ不戦条約では次のように定められています。

第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す

第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す

この条約は「自衛権」は認めており、その判断はその国に委ねることになっています。ソ連の対日参戦は「自衛行為」であり、オランダの対日宣戦布告も「自衛行為」だったとし、条約違反でなかったとするのであれば、日本の戦争も自衛行為になるのであり、日本がパリ不戦条約違反だと訴追するのは無理があります。もし、日本の戦争を「条約違反」「侵略」とするのであれば、ソ連もオランダも同じように「条約違反」「侵略者」ということになります。二国には訴追の資格はない、ということです。そしてパール判事は次のように皮肉っています。

「みずからかように犯罪を犯した国々が、自国民中の同種の犯罪人を等閑(とうかん なおざり)付し、一丸となって戦敗国民を同様の犯罪のかどで訴追しようとは、かりそめにも信じられない」

東京裁判のインチキぶりをズバリ指摘していると言えるでしょう。



参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
 ウィリアム・F・ウエップ裁判長(PD)

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

ニュルンベルク裁判や東京裁判は戦争の抑止力にはならなかった。
$かつて日本は美しかった


 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日~1948年11月12日)。

 東京裁判では11人の判事がおり、インド代表のパール判事はA級戦犯25名の被告に対して全員無罪の判決を下しました。パール判事が書いた判決書には戦争における個人責任の問題について検討しており、1907年のハーグ条約に関して言及しています。

「1907年の第四ハーグ条約は、疑いもなく締約国間だけに適用されるものであり、しかもその場合でも交戦国がことごとくこの条約の当事者でないかぎり、適用されないものである。しかしながら、この条約の付属規定は、ただ文明諸民族の間に確立された慣例の結果として生まれた、現存の国際法の諸原則だけをとり入れたものであるといわれている。
 法のもとにおいては、戦勝国が国際法上の当然の手続きに依ることなしに、これらの俘虜を『処刑する』としたならば、その行為は戦勝諸国による『厳密ナル意味ニオケル』『戦争犯罪』となろう


「本官の見解によれば訴追されている諸行為が現存国際法のもとでなんらの犯罪をも構成していないとすれば、勝者の下した新しい犯罪の定義をもってそれらの行為をなした人々を裁判し処刑することは、勝者自身が『戦争犯罪』を犯すことになるであろう。俘虜が国際法上の諸規則、諸規定に則って処理されるべきであり、勝者みずから選んで国際法であると称するところにしたがって処理すべきでない」

上智大名誉教授の渡部昇一氏によると、これは東京裁判そのものが捕虜虐待になっているとの指摘であると述べています。昭和20年(1945年)9月2日からはアーミステス(休戦)であり、昭和27年(1952年)に発効したサンフランシスコ講和条約によって戦争状態が終了してピース(平和)に至るのですから、講和条約が成立するまでは戦争が完全に終わっていない状態でした。したがって、東京裁判の被告は全員捕虜であり、国際法における厳密な意味の戦争犯罪を裁くのはよいとしても、敵対行為の終了に先立ってあらかじめ発した警告中に構想されていなかった新しい概念を持ち出して彼らを裁いたならば、裁くほうが戦争犯罪を犯すことになるというものです。

 たしかに、日本はポツダム宣言を受諾し、正規な手続きを経て降伏しました。そこで拘束された者は国際法上の捕虜になるわけです。そこで裁判を行うとしたら国際法に則って裁かれなければなりません。しかし、東京裁判は裁判所条例が作られ「平和に対する罪」という事後法が適用されているのです。不当な裁判であり、ハーグ条約違反になります。戦争犯罪に匹敵し、結果、7名が処刑されたのですから、これは「捕虜虐殺」に相当します。

 渡部昇一氏によると東京裁判の検事は第二次世界大戦を最終戦争のように思い込み「ここできっちり罰してしまえば、二度と世界に戦争は起こらない」という感覚を持っていたと指摘しています。

 パール判事
「犯罪に対して裁判を用い、刑罰を科する手段は、戦争に敗れたものにたいしてのみ適用されうるという段階の国際機構がとどまるかぎり、刑事責任の観念を導入しても、とうてい制止的と予防的効果を期待しうるものではない。
 一つの侵略戦争を計画することによって生ずる刑事責任に問われる危険率は、その計画された戦争に万一敗れた場合に、問われることのありうる刑事責任の危険率に比して、より重大となることは決してないのである」


 東京裁判は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの名において行われました。マッカーサーは昭和25年(1950年)10月15日にウェーキー島でトルーマン大統領と会談しています。そのとき次のように述べています。

「戦争犯罪人などに手出ししてはいけない。うまくいくものではない。ニュルンベルク裁判や東京裁判は戦争の抑止力にはならなかった(Don't touch the war criminals.It doesn't work.The Nurnberg trials and Tokyo trials were no deterrent.)」

 昭和23年(1948年)12月23日、東京裁判で戦犯とされた7名が処刑されました。それからわずか2年もたたないうちに朝鮮戦争が勃発しています。日本は赤化の防波堤の役割を果たしていたのに、連合国がそれを壊したため朝鮮戦争がおこったのです。東京裁判では見当違いな「戦争防止策」として日本の指導者を裁くという「戦争犯罪」が行われていたのでした。



参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
 東京裁判の光景(PD)

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。

乃木将軍愚将論は間違い。
$かつて日本は美しかった


 明治37年(1904年)~明治38年の日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、本当はそうではありません。

 旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。日本軍は日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。

 明治37年8月19日、第一次総攻撃開始。旅順要塞が強固なのに気づいた乃木将軍は9月1日には塹壕を掘って接近する「築城攻撃」に切り替えました。これは要塞戦では極めて有効であることを世界に先駆けて示すものでした。
 海軍はこの前の8月10日、黄海海戦で旅順艦隊の一部を取り逃がしてしまい、同艦隊は旅順港に篭ってしまいます。バルチック艦隊を迎え撃つには旅順艦隊と挟み撃ちになる危険があります。海軍は陸から山越えに旅順港にいる旅順艦隊を砲撃しなければならないと考え、陸軍に旅順攻略を早めるように矢の催促をしたのです。それで乃木将軍は無理な作戦でもやらなければならなくなったのです。

 乃木将軍は海軍の要請により旅順港を見下ろし砲撃可能な203高地をターゲットに切り替えていますが、既に第一次総攻撃後に攻撃目標にしており、大損害を強いられています。評論家の福田恆存(ふくだつねあり)氏は昭和17年(1942年)に203高地に訪れ、斜面の急峻さに衝撃を受けており、昭和45年(1970年)に乃木愚将論は間違いと指摘しています。
 10月15日、バルチック艦隊がバルト海リバウ軍港を出発。10月26日、乃木将軍は第二次総攻撃開始の命令を発します。塹壕作戦と砲撃により損害は最小限に止めることができました。大本営が主攻撃目標を203高地に切り替えるよう決定したのは11月14日のことで、11月26日から第三次総攻撃を開始し、白襷隊ほか各師団は苦戦を強いられ、11月27日、乃木将軍は主攻撃目標を203高地に切り替えました。203高地への攻撃は203高地後方の堡塁を砲撃するとともに、ロシア軍の逆襲を阻止すべく、味方撃ちも辞さず砲撃を加える非情なものでした。この第三次総攻撃の死傷者は1万7千でしたが、うち1万は203高地においてでした。

 12月5日、203高地を占領します。ここに海軍は観測地を儲け、旅順艦隊を砲撃しますが、実は既に旅順艦隊は廃艦となっていたのでした。海軍はこの情報をつかめていなかったのです。
 203高地を落としても旅順要塞は健在です。乃木将軍は坑道を掘って堡塁を爆破する正攻法で各堡塁を次々に占領し、明治38年1月1日に最高所の望台を奪い、ロシア軍司令官ステッセルはついに降伏しました。

 旅順攻防は1万5千の死者、4万4千の戦傷者を出しましたが、日本軍の士気は衰えることなかったため、ロシア兵は恐怖を抱いたといいます。兵士が乃木将軍を有能な司令官として信頼し、敬愛していたということでしょう。また、乃木将軍の息子二人は危地の部署においたため戦死しています。この点でも日本兵士は乃木将軍の心を知り奮闘したのだと思います。「坂の上の雲」ではそう書いていません。「ひどい作戦指導」「将官級のなかの一、ニの中にはわざと病気になり後方に送られる者すらでてきた」などと書き、一部の将官の旅順戦後の講義から引用し、「(乃木将軍は)まさに死を決っせんとしているとの風説が前線に伝わったことがある。しかしその風説は、少しも第一線部隊の督励にもならなかった」「将軍の子供が二人戦死したごときも・・・第一師団方面は知らぬこと、第十一師団方面では当然ぐらいに考えたに過ぎなかった」と乃木将軍をこき下ろしています。

 難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍は世界中から賞賛されました。「水師営の会見」で見せた武士道精神に対するだけでなく、近代的大要塞を過小な兵力でしかも短期間に陥落させた「奇跡を起こした将軍」として讃えられたのです。

 現在、歴史教科書で乃木将軍がどのように書かれているか自由社の教科書(H21年版)を見てみましたが・・・乃木将軍の名前はありません。東郷平八郎は1ページカラー使ってます。東京裁判史観の延長上にある「坂の上の雲」の呪縛から逃れられないのでしょうか。極めて困難な条件下で目的を達し、人間的にも優れていた人ですから載せてもらいたいものです。




参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『私を"転向”させた坂の上の雲』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11
  『世界に先駆ける合理的な戦法と敢闘が永久要塞を攻略した』原剛
  『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る”日本人の真価”とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 1列目左から4人目東郷平八郎、5人目乃木希典、2列目左から6人目秋山真之 アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。




明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編
http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o






本記事は平成21年11月26日記事「旅順攻略の乃木将軍」を再編集したものです。