1937年の第二次上海事変で敗走した支那軍は上海から南京へかけて民間からの掠奪行為を繰り広げたばかりでなく、湯山から南京へ向けての農村地区ではほとんどの建物に火がつけられました。農村だけでなく南京城周辺の小さな街も焼き払われました。


ニューヨーク・タイムズ ダーディン記者
「支那軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは南京攻略に先立って何ヶ月も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう」


 南京城内でも支那軍の凄まじい掠奪が行われました。南京陥落後もしばらくは掠奪が続いていたようで、陥落の翌日14日に東京日々新聞・佐藤振寿カメラマンが支那人が掠奪品を運んだり、店の戸をこじ開けている支那人を見ています。そして治安が戻ると泥棒市が繁盛したそうです。


岡田尚通訳官
「昭和13年3月に維新政府ができると、私も南京に行きましたが、泥棒市にはたくさんの豪華な絨毯(じゅうたん)や骨董品があり、これらは、その時掠奪したものだと思います。このとき私も居を構えるため絨毯を買いました。」
 
 蒋介石の軍は黄河・開封の堤防を爆破して、決壊させて日本軍の足止めを図りました。濁流は河南省の半分を水没させ、住民32万人の死者がでます。
 蒋介石の軍は九江(蕪湖から南西へ約200キロ)に落ち延びると家々を占拠し、食料を掠奪します。住民は自分の街で難民になります。日本軍が迫ると支那軍は井戸にコレラ菌を撒き、長江の堤防を決壊して逃げます。日本軍は九江に入ると家を失った住民にコメを配給し、コレラ菌に感染した500人の治療を行い、井戸水の防疫を行い、更に堤防の復旧を行います。
 武漢が陥落すると蒋介石の軍は湖南省の長沙に日本軍が来ると読んで昭和13年11月に街を焼き払います。住民2万人を焼死させます。(日本軍はこの3年後にこの街を占領)

 はてさて、大虐殺を繰り広げているのは支那軍ではありませんか。日本軍は南京の治安回復につとめ、その他地域でも住民を助けています。




参考文献
 「『南京事件』の総括」田中正明著
 「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一著
 WILL別冊「歴史通」10月号『日本を潰せ - 支那の背後にちらつく露・独・米の影』高山正之
参考サイト
 WikiPedia「武漢作戦」「徐州会戦」




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