私が学校で学んだ戦前の歴史のターニングポイントは2・26事件、5・15事件であり、武力によって政党政治を壊滅し、軍部主導の政治になって戦争への道を歩んだ、というものでした。現在ではこの教えは日本の再軍備を押さえ込むための歪んだ日本軍悪玉論であったと思っています。今までの勉強の中では本当のターニングポイントはもっと前の日露戦争後の小村外交に端を発した日本と米国、英国との関係にあったと思っています。

 日露戦争終盤、日本側は弾切れの状況になり、米国も日本の勝ちすぎを警戒し仲介。ポーツマス条約を結ぶことになります。日露戦争において日本のバックには莫大な資金援助をする米国の鉄道王ハリマンらのユダヤ資本がありました。セオドア・ルーズベルト米大統領はユダヤ人です。ユダヤ人はロシアから迫害されていたので日本に資金援助をしたのです。そして戦後、ルーズベルト大統領は鉄道王ハリマンを日本に派遣し、桂・ハリマン協定を結びます。奉天以南の東清鉄道の日米共同経営する仮規定です。これはニューヨーク~アメリカ大陸横断鉄道~南満州鉄道~シベリア鉄道~大西洋航路~ニューヨークという「地球交通」という大規模プロジェクトの一貫です。ところが小村寿太郎外相は来日したハリマンの帰国(1905年10月13日)の3日後、入れ違いに米国から帰国し、協定に驚き、小村は既にハリマンの商売敵モルガンを推していたので強行に反対し、この協定を破棄させてしまいました。モルガンとの提携は機関車やレールを買ってくれというだけのものでした。日露戦争をあれだけ支援したルーズベルト&ユダヤ資本を袖にしたわけです。

 この頃見逃せないのが日露戦争の日本勝利にアジア諸国が喚起したことです。支那からは一万人超える支那人留学生が東京へ押し寄せています。この姿は白人達にとって脅威だったでしょう。ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開き「中国の日本化が進むと欧州の権益が失われる」と主張し、「米、英と協力し、日本を押さえ込まねばならない」(ニューヨークタイムズ)と政府に警告を発しています。

 憤慨した米国は大陸の権益を得るためにはは目の上のこぶである日英同盟をつぶしにかかり、米国は日英同盟の対象から米国をはずすようなど働きかけ、1921年ワシントン会議で四カ国条約により日英同盟廃止にこぎつけます。

 1921年のワシントン会議ではワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の比率は英米日5:5:3となります。日英同盟が破棄された上では米英10に対して日本は3になったわけです。日本を孤立化させ、米国は日本を仮想的国として大陸への進出を着々と狙っていったのです。
 以前、上智大学名誉教授の渡部昇一氏の対談番組を見ていたとき、渡部氏がケンブリッジ大の英国人教授との話題を語っていました。渡部氏が「日英同盟の破棄がまずかったですね。」と言うとその英国人教授がひざを叩いて「その通りだ。」と叫んだそうです。英国にとってもこの頃が大英帝国のターニングポイントだったのでしょう。米国の世界進出によりその世界一の地位を失い、大東亜戦争によって植民地を失ったのですから。


参考サイト
 WikiPedia「日英同盟」「ワシントン軍縮会議」
参考文献
 「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之共著
 「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 「国家への目覚め」櫻井よし子・田久保忠衛 共著



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