世界が絶賛した、柴五郎。
$かつて日本は美しかった


 明治33年(1900年)、清国で義和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進する光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳のとき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまります。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにしていませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略)この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

 この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン(著) 中山理(訳) 渡辺昇一(監修)
 オークラ出版「世界から愛された日本」『世界に轟いた会津武士道』岩田温
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡辺昇一
 PHP研究所「歴史街道」2010.06柴五郎と北京籠城
参考サイト
 WikiPedia「義和団の乱」「光緒帝」
添付画像
 明治35年(1902年)7月、ロシア・ペテルブルクを訪れ、歓待を受けたときの写真。中央が柴五郎。「歴史街道」2010.06より

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本記事は平成21年11月24日記事「義和団事件」を再編集したものです。