昭和12年(1937年)8月9日、国民党の張治中(共産党工作員)によって、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が殺害されます。支那軍は3万の軍で上海の日本租界を包囲。対する日本は陸戦隊わずか4千。 日本領事館は在留日本人を小学校や歌舞伎座、旅館、東西本願寺に避難させます。
 8月13日午前10時30分、商務印書館付近の支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせてきます。日本軍はできるだけ交戦を避けようとします。午後5時54分、八字橋から支那軍が急襲してきます。これは爆破を伴う本格的なもので、陸戦隊は遂に反撃を開始します。

 この第二次上海事件はコミンテルンの策謀であり、国民党に潜伏した張治中が指揮しています。日本人居留民を包囲し、日本軍をおびき寄せ、大戦争をおっぱじめようとするものです。蒋介石としては日本を叩いて屈服させ、条約を全部無効にしたいという意思が働いていました。日本はこうした意図を読み取れず、不拡大論、戦線拡大論が交錯することになります。

 上海ではドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った支那軍に対して寡兵の陸戦隊が大奮戦します。八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退しています。
 邦人はどんどん引き揚げさせますが、通州の大虐殺が再現されるかもしれないとの恐れから、残っている一人ひとりの邦人に警備がつけられ、汽船やブロードウエイマンションに避難させます。それでも残っている800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作ります。

 16日には支那軍が大挙して陸戦隊本部へ押し寄せますが、日本軍は戦車と装甲車を使って防戦。その後も支那軍は攻撃を続け、当初の2個師から3個師を加え、7万の大部隊まで増強します。寡兵の日本陸戦隊は常に守備について休むことも睡眠をとることもできません。日がたつうちに損耗と疲労はたまってきます。
 ようやく18日と19日に横須賀と呉の特別陸戦隊が上海へ到着。これでもまだ合計6千3百名で、支那の1/10の戦力です。
 22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破されます。しかし、日本軍は必死に応戦し、夜明けとともに支那軍の攻勢もやみます。更にその夜からも支那軍が各戦線で攻撃を行い、23日にわたり激戦となりますが、陸戦隊はかろうじて防衛します。

 23日に待ちに望んだ日本陸軍部隊が上陸を開始します。陸戦隊は守り切ったのです。25日以降は支那軍は日本陸軍の部隊を攻撃目標にせざるを得ず、それまでのように陸戦隊に積極攻撃に出てくることはなくなりました。第二の通州の惨劇を免れることができたのです。

「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」後日、蒋介石はこう悔やんだといいます。
ニューヨーク・タイムズ8月30日
「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙9月16日
「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」

 日本の侵略などどこにもありません。



参考文献
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「日本は侵略国家ではない」渡部昇一・田母神俊雄共著
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
参考サイト
 WikiPedia「第二次上海事変」



広島ブログ  クリックで応援お願いします。