1900年の義和団事件以来、北京から天津一帯に、日本や欧米の軍隊が条約に基づいて駐屯していました。
 1937年(昭和12年)7月7日、日本の一個大隊が間近に迫った司令官の検閲に備え北京郊外で夜間演習をしていました。近くに永定河が流れ、そこに架かる盧溝橋から数百メートルのところに宛平という町があり、その北の龍王廟付近で演習していたところ、堤防あたりから、突然、数発の銃弾が打ち込まれました。日本軍が集合ラッパを吹くと、再び弾が飛んできました。(死傷者なし)
 日本側は東京の参謀本部に連絡し、支那へ軍師を派遣して直接謝罪要求をすることになりました。北京を含む二省は冀察(きさつ)政務委員会が行政権を持っており、二つの省を支配する第二十九軍も宋哲元がかねており、蒋介石の南京政府からは半分独立していました。
 第二十九軍の軍事顧問を務めていた桜井徳太郎少佐が支那側に向かい、秦徳純北京市長にあって説明すると、秦市長は軍使を歓迎し、支那側からも現地に使者を派遣すると述べます。
 そうしているうちに、またも龍王廟から銃声が聞こえてきて、報告を受けた牟田口廉也連隊長は「撃たれたら撃て」と命令。一木清直大隊長は中退を展開させ、歩兵包帯には龍王廟を目標に展開します。明け方5時30分、再び龍王廟とそばの堤防上から攻撃を受けたので砲撃を開始。支那側トーチカを吹き飛ばします。すると今度は宛平県城、盧溝橋上、川中島などから日本軍に銃砲撃が集中してきます。

 第二十九軍の副参謀長、張克侠(共産党員)は北京周辺に駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定しており、盧溝橋事件はその一部であり、その作戦計画案が日本軍によって後に没収されています。中村黎氏の「大東亜戦争への道」に詳細に書かれているようですので読んでおきたいです。東京裁判のときは共産党の劉少奇が西側の記者に「仕掛け人は中国共産党であり、自分が現地指揮官である」と証言したといわれています。東京裁判で盧溝橋事件の審議は支那側判事は審理を中断してしまいました。

 このとき、日本国内では近衛内閣が誕生したばかりでした。近衛首相はただちに不拡大方針を徹底することで現地へ通達。杉山陸相は増派案を進言しましたが退けられます。しかし、支那側の攻撃が続いたため、11日には杉山陸相から再び増派案を提言します。これには近衛首相も同意せざるを得ない状況を悟り、不拡大の努力を行う条件付で同意します。
 現地では解決に向かって動き始めます。宋哲元は撤退に向けて動きます。しかし、17日蒋介石がラジオで「盧溝橋が占領されるなら、北京は第二の奉天になり、北京が第二の奉天になれば、南京が北京にならないと誰が保障できるであろうか、いよいよ最後の時がやってきた」というものです。さらに蒋介石から宋哲元へ使者がきて「蒋介石は対日戦を決意している」と告げられ宋は「蒋介石の指示に従う」の述べます。これで支那軍の撤退は取りやめとなり、桜井少将が襲撃された事件を機に作戦本部の石原莞爾部長は内地の三個師団の動員を決断し、全面的な闘いになります。このとき宋哲元は冀東保安隊に日本軍攻撃を命令したためあの無残な「通州事件」につながることとなります。


参考文献
 「日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一著
 「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 「日本は侵略国家ではない」渡辺昇一・田母神俊雄共著
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著



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