米国は明らかに挑発していた。
$かつて日本は美しかった


 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争日米戦が始まりました。アメリカは日本が開戦に踏み切るよう、先に手を出させるように挑発していました。それらの行為にハル・ノートや禁輸措置がよく挙げられるでしょう。その前年、昭和15年(1940年)10月にはマッカラム・メモランダムという日本を戦争に引きずり込むための計画が作成されており、その中にはオランダが日本資源を提供しないよう働きかけるというのがあります。昭和15年秋から昭和16年はじめにかけてこれが実行されます。
 
 マッカラム・メモランダム作成以前の昭和15年7月からアメリカの対日貿易に制限が加えられており、日本は資源確保のため商工大臣小林一三がオランダと交渉しますが、既に裏で米と蘭はつながっていました。日本代表団はオランダ代表にワシントンの傀儡か!といって攻めます。そして昭和16年6月に交渉は遂に打ち切りになりました。

 マッカラム・メモランダムの実にえげつない挑発行為にポップアップ巡洋艦があります。昭和16年7月、豊後水道に米巡洋艦三隻を出撃させました。わかるでしょうか、今で言えば中共の軍艦が瀬戸内海入り口に入り込んで来たのと同じです。

 日本から米グルー大使宛の抗議
「7月31日の夜、宿毛湾に錨泊中の日本艦艇は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕らえた。日本海軍の当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。二隻の巡洋艦は日本海軍の当直駆逐艦が向かっていくと、煙幕に隠れて南方よりの方向に見えなくなった」「日本海軍将校は、それらの船がアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」

 ルーズベルト大統領はこのポップアップ巡洋艦について以下のように語ったといわれています。
「自分はそれらの巡洋艦があそこやここで飛び出し行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻か二隻失っても気にしないが、五隻か六隻も失う羽目には陥りたくない」

 昭和16年7月と言えば米国はパナマ運河を封鎖し、対日全面禁輸、日本の資産凍結を行っていますから、この軍事的挑発は「さあ、もう日本は戦争するしかないよ、受けて立つよ。どうする?」と言っているようなものでしょう。日米関係は絶望的状況であり、すでにこの時点で開戦か、隷属かの二択しかなくなり、最後の切り札として日米首脳会談が計画されました。しかし、ルーズベルト大統領は乗り気(のように見せかけた)でしたが、アメリカ側は事前に基本合意なくして首脳会談に応ずることはできないと強硬な態度に出てきたため、暗礁に乗り上げてしまいました。そして日本は民族の生存と誇りをかけて開戦の道を選ぶことになります。



参考文献
 文藝春秋「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット(著)/妹尾作太男(監訳)/荒井稔・丸田知美(共訳)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 祥伝社黄金文庫「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)

添付画像
 米空軍CATFに編入後の飛虎隊所属機(フライングタイガース P-40K)と、それを護衛する中華民国の兵士(PD)
 日米開戦前は中国空軍起動部隊(CATF)所属となっていた。

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本記事は平成21年10月20日「日本を締め上げ徴発せよ」を再編集したものです。