大学生の頃、バンドを作ってフォークソングを歌っていた。

 

しかし、いつからかボーカルを担当していたりえさんが

 

空を見上げるように視線を上に向けるようになった。

 

それはりえさんの悩んでいるときのクセだった。

 

彼女の夢はフォークソングでなく

 

ジャズシンガーになることだった。

 

 

 

 

りえさんの歌い方というのは何の技巧も使わず

 

シンプルで、まるで口ずさむような歌い方だったが

 

その素朴さが不思議に胸に響いた。

 

卒業し、りえさんは働きながらジャズの世界を目指し

 

僕は広告作りの夢を持って故郷に戻った。

 

 

 

 

2年後、京都の「Candy」という店で

ジャズシンガーの夢を叶えて、りえさんは歌っていた。

 

歌い終わってりえさんは真っ先に僕のところへ来てくれた。

りえさんは時折り上のほうに視線を向けて黙り込んだ。

そのクセはすぐにわかった。彼女は悩んでいたのだ。

私はこの歌い方しかできないから・・・

それが素人っぽいとお客さんに言われる。

りえさんはため息をついてこう言った。

「営業用語ばかり身についてそれがとても嫌なの・・」

 

 

 

 

りえさんはしばらく懐かしそうな作り笑いをしていたが


突然「純ちゃん・・・あの頃が楽しかった・・・」

と言うなり、大粒の涙を流しはじめた。

人前では一度も涙を見せたことがなかったのに。

「りえさんに技巧などいらない。素朴さが魅力だもの。

みんなそれが無いからあれこれと苦労しているんだ。」

 

「そうよね。これが私らしさだもの

 

私、自分を見失っていたのかもしれない・・・」

 

 

 

 

だが、そんな会話を裏切るように


彼女は驚くべき変身をとげた。

過去の自分を捨てひたすら技術を磨いた。

高度なボイストレーニングに身をゆだね、表現を磨いた。

 

彼女はもう僕の手の届かないところへ行こうとしていた。

 

そして数年後、ふたたび京都の「candy」で彼女の歌を聴いた。

 

 

 

 

彼女はビブラートを使い感情をこめて歌っていた。

 

技巧とはこういうものかと思わせるものだった。

 

ただ、胸に響く何かが欠けているように思えた。


感情ばかりを露わにした歌いまわしは妙に不自然で

 

背伸びした声が部屋中に響いた。

 

共演者と和むこともなく、彼女は孤独だった。

 

言葉ではあらわせない何かが僕の中で引っかかっていた。

 

 

 

 

アンコールが終わり

 

彼女は皆に「来てくれてありがとう」と繰り返したが

それは心の通わない冷たい響きだった。

そして僕にも無表情で「来てくれてありがとう」と言った。

 

それは久しぶりに再会した僕と喜びを分かち合うには

 

あまりにもかけ離れた「来てくれてありがとう」だった。

 

数人のほろ酔い客が彼女を取り囲み僕をさえぎる。

 

歌よりも女性目当てのオヤジたちと写真を撮って反応する。

 

「来てくれてありがとう!」「来てくれてありがとう!」

僕は変わってしまったりえさんに言った。

 

「来てくれてありがとうって、嫌いだった営業用語?」

りえさんは何かを言おうとしてやめ

 

冷たい視線を上に向け、逃げるように消えていった。

 

 

 

 

りえさんにはもう会うものかと決めて歳月が流れた。

 

昔のバンド仲間から思いもかけない連絡が入る。

 

それはりえさんがもう歌を歌っていないという話だった。

 

その時になってハッと思い出した。

 

あの日、何かを言おうとして上を向いた彼女の仕草は

 

りえさんが何かに悩んでいるときのクセであったことを。

 

 

 

 

人は変わる。夢に向かう。そして蹉跌を踏む。


あの日、遠くに視線を向けた彼女は悩んでいたに違いない。

 

だとすればなぜそのクセを思い出せなかったのだろう。

 

なぜ営業用語などと毒づいてしまったのだろう。

 

それに気付けず、やさしさを向けられなかった自分を悔やんだ。

 

その日は遅くまで酒を飲み、いつまでも酔うことがなかった。

 

 

 

 


フォークバンドに熱中していたころ

彼女が僕につけてくれたニックネームが「ロマン」だった。

リーダーをしていた僕の言動に

ロマンチックな表現が多いとりえさんにからかわれた。

 

 

りえさんと最後に歌った歌は「ふたつの道」という歌だった。

 

 

     あなたにはあなたの道がある

 

     わたしにはわたしの道がある

 

     ふたつの道はどこまで行っても

 

     交わることのない遠くかなしい道




あれから幾十年が過ぎた。


コンクリートの隙間から夜空を仰ぐ。

 

気づかないうちが花で、人はたちまちに老いていく。

僕らの「ロマン」はどこへ行ってしまったのだろう。

 

りえさんとの間にのびるふたつの道は

 

交わることもなく 重なることもなく

 

皆それぞれが晩年を迎えようとしている。

 

 

 

(「涙の数だけやさしくなるために」より ふたつの道 )