桜吹雪に Say Goodbye
百貨店の小さな出張所に1年間通うことになった。都落ちの理由はたぶん、僕の仕事がいい加減だったからだろう。仕事人間を貫き過労とストレスで死んでいった親父を見てきた。その反発心は容易に芽生えた。中途半端でよいと思った。僕は何をするにも半分の力で生きた。仕事も恋も人間関係も。出張所は所長の僕と事務をするきみのふたりだけだった。首筋をおおう「後れ毛」とやせっぽちなきみには心の病に苦しむ彼がいた。彼はつらい心をきみに委ねていた。「きみが心の支えなんだろう。そばにいてあげなさい」「そのつもりです」ときみは答えた。4月 木々のつぼみが一斉に春を告げた。「桜が見たい」きみにせがまれて、事務所のそばにある公園の桜を見る。桜の下で、きみは子供のようにはしゃいだ。次の日も、そしてまた次の日も僕たちは無造作にコンビニ弁当をひろげ彼女は得意なピアノについて熱く語った。そしてふとこんなことをもらす。「彼にはね、燃えるものを感じているわけではないのだから・・恋人ではないんです・・」僕はきみの思いを理解しようともせず答えた。「人のことを大切にする女の子なんだねでも、自分のことも大切にしないといけないよ」きみはじっと黙っていたが、ふいに肩を寄せてきた。「今日は調子が悪いの」きみがそうつぶやく日は、きみの彼が苦しんでいる日であった。桜を見つめながらきみがつぶやく。「お母さんになりたいな・・」君の言葉に答えようようと、僕は作り話を思いつく。「昔、こんなことを祖母に教わったよ」それは桜の花を手のひらにのせ「ありがとう、ありがとう」とつぶやけばやがて母になり美しい娘が生まれるという話だった。きみは足もとの花びらを手のひらにのせた。ありがとう・・・ありがとう・・・僕はその花びらをきみの髪にのせた。「1枚目は『す』 2枚目は『き』」とささやいて。時折きみの携帯を鳴らす彼からの電話はどこにでもあるような恋人たちの会話ではなかった。長い通話のなかで彼はひと言も喋らなかった。心の病と戦っているのだろうか。うん、わかってるよ 寝ていていいのよ ・・・長い沈黙に耐えながらきみは彼を理解しようとつとめ電話が切れると何事もなかったように髪を後ろに束ねた。仕事を終えると、きみは彼のもとへ向かうのではなく残業をする僕を待って、一緒に帰ろうとする。「早く彼のもとへ戻らないといけないよ」「そんなことはわかってる。私はちゃんと支えてます!」きみは感情を露わにして不機嫌になる。「お願いだから、もう彼のことは言わないで!」僕はたじろぎながらも思いとうらはらな手がきみの肩を抱いていた。桜は花吹雪へと変わっていった。ぽろぽろと涙をこぼしてきみが泣く。「彼が最初から好きな人ならよかった。いま自分が彼にしていることは愛なんかじゃない・・・でも彼を捨てて彼が死んだら私は一生後悔すると思う。もう後戻りできない・・・・」ある日きみは僕の腕をつかんで言った。「もういちど、もういちどだけ あのおまじないを」今さら作り話などと言えるはずもなかった。僕たちは外に出て桜の木に向かう。きみは手のひらに桜の花をにぎりしめありがとう。ありがとう。その花びらを僕にさし出した。ひとーつ 「す」 ふたーつ 「き」そよ風に揺れるきみの髪にふれた。「ずっとこのままで・・・」きみのかすれた声が風に消えた。「このままがいい・・・」きみはふるえながら涙を流し続ける。ぼくはただきみを抱きしめ続けるしかなかった。次の日、きみは仕事を辞めた。僕はショックを受けながらも平然を装った。僕はきみの人生の邪魔をした。苦しんでる彼にも悪いことをしたと言った。きみはしばらく黙っていたが 大きく息を吐いてあなたは何もわかっていないと言った。小さな紙切れを僕に握らせて、そのままいなくなった。「彼はとても繊細で傷つきやすく病気のことは自分にしかわからないことだと言います。お互いに向き合うことがとても難しく何度も心が折れそうになりました。でも私にだけは心を開いていられると言われてから私は彼を理解しようとして、ずっと離れずにいます。でも前にも言ったように彼を心から愛しているという感情が持てないのです。それは彼を裏切っているということです。支える喜びだけが私の中で育ってしまったのです。でも私は本当に彼を支えているのだろうかこんな中途半端な気持ちでいいのかと思うと自分がどうしていいのかわからなくなりました。私はどこへ行くのだろうと考えてみました。私は幸せに生きているんだろうか。いや、私は生きてなんかいないのだと思いました。そんな時、所長に自分のことも大切にしろと言われたのです。所長とのひとときは私の甘えられる時間であり生きているという実感を持てるひとときでした。所長にわがままを言えて、思いのたけを投げられる。叱られ、ほめられ、夢を語ることができる。抱かれながら「ああ、私は生きている」と何度も思いました。そのひとときにいられる自分が幸せでした。でも帰り道、いつも苦しい気持ちが襲います。あなたは逃げているんだ。もうひとりの私が語りかけるのです。ギターだけがとりえの彼が私に歌を作ってきました。ありがとうと言いながら、素直に喜んでいない自分がいました。彼のリストの傷を見ながらずっとずっと考えました。「信頼」って何だろう。「愛」って何だろう。何もかもわからなくなって、自分の頭を強く掻きむしりました。いくつもの髪の毛が私の指にからみついて落ち尖った爪に掻かれた頭皮がヒリヒリと痛みました。そのときハッと気づいたのです。彼の傷が意味するものを。彼は生きようとしている。懸命に生きようとしているのだ。布団にもぐりこむと 大粒の涙が次々にあふれ出しました。夜明けの灯りのなかで、私は彼の叫び声を聞いた気がしました。あの傷こそ彼が生きようとしている証なのだ! 私と一緒に!彼の可能性を奪ってはいけない。ここまで一緒に歩んできたのだもの。ここからはぐくんでいけばいい。信頼と愛を!そして燃えて生きるという人生を自分の中から追い出そうと決めたのです。所長のやさしい言葉、やさしい気遣いは私を癒してくれました。桜の話はきっと作り話だと思います。作り話でも私には嬉しかった。燃えて生きることの喜びに震えました。ああ、私は生きてるんだと感じながら泣き続けました。素晴らしい思い出を、ひとときの生きているという実感を本当にありがとうございました。」きみが去ってからパートの奥さんが事務を引き継いだ。彼女はきみが昔働いていた職場の先輩であった。彼女は感情を前面に出したきみとは正反対に奥深い懐を持ち、つねに穏やかにふるまった。僕ときみのことを知っているのではと不安に思ったが彼女は冷静で何も知らぬ素振りを続けた。僕は彼女を尊敬した。まだ半分程度花びらの残る夕方僕はパートの奥さんとあの桜の木の下を歩いた。「私の夫は癌を患っているのですがとても明るくふるまうのです。私を悲しませたり自分のことで苦労をかけさせたくない。そんなふうに思ってくれているのかもしれません。あるいは自分のことを哀れに見られたくないという夫の自尊心があるのかもしれません。時々夫が淋しそうな目で夕暮れを見つめていたりすると私はどうすればいいのか、とても迷うときがあるのです。」パートの奥さんはさらに続けた。「人間はひとりだけでは生きていけないけれど誰もが自分のことだけを考えて生きている。だから苦しいんですよ。きっと。桜の花は一瞬のあいだ夢物語を見せてくれるけど桜吹雪とともに私たちを現実に戻らせてくれる。花びらが人を隠すほど舞った後に現れるものは夢物語ではなく、現実的な、ほほを伝う風だけです。ひとつだけ願うことがあるとすれば自分でも気づいていないところで誰かが私を支え、自分が誰かを支えている。そんなことがあるといいなと思ってます。」人事異動があり、本社に戻った。もうきみに会うことはなかった。きみと彼の関係はどうなったのだろうか。いくつかの季節をへだてて彼も病を乗りこえて幸せになってほしいと思うようになった。一時の情熱よりも信頼こそが大切だと思えるようになった。それは僕の思い上がりなのだろうか。きみが選んだ人生の選択には様々な意見もあるだろう。だが、人の真実など誰もわかりはしない。愛と信頼にすがり、人生に立ち向かったきみとは裏腹に新しい部署の新人たちはあきらめも変わり身も早く、つかみどころがなかった。僕もまた桜の季節を待ち焦がれるようになった。桜の季節になると毎年あの公園を歩いた。弁当をひろげて語った場所はいまもそのままの姿だった。ある年の春。桜吹雪が舞っていた。いつもの桜の木の下まで来ると、親子がボール遊びをしていた。遠くからその母親の顔を見て僕の胸は高鳴った。きみだった・・・・・女の子は無邪気に赤いボールを蹴っていたがそのボールが僕のほうへ飛んできた。僕は反射的に木陰に身を隠した。だが、ボールを追いかけてきた女の子は僕の姿を見つけて「おじちゃん、なにしてるの?」と言った。ハッとした。首筋の「後れ毛」はまさにあの日のきみのものだった。きみのお父さんは誰?そんな思いも一瞬よぎったが、女の子の声がそれをとめた。「泣いてるの?おじちゃん」きみにうりふたつの女の子が僕を見上げる。僕は必死で桜の木に歩み寄り舞い落ちた花びらを2枚ひろい集めた。「お、おじちゃんはねママが大好きになるおまじないをしてるんだ。お嬢ちゃんもやってごらん。」「こうやってありがとうっていうの?それからはなびらをママのあたまにのっけて『すき』っていうのね。わたし、やってみる!」2枚の桜の花びらをつかんだ少女はきみに向って走り出した。「ママ~」「なあに?」「ちょっとすわってみて」「え?ママ座るの?」「うん、じゃあいくよ!」「ありがとう。ありがとう。 それからあ・・ひと~つ 『す』! ふた~つ 『き』! ・・・」僕はゆっくりと木陰から出て、会話する母子を眺めた。遠くで女の子が僕を指さしている。きみが、きみが立ち上がって僕を見た。これから始まろうとする再会のドラマにちいさな期待と恐怖心を味わいながら僕はゆっくりと、ゆっくりときみに向かいはじめる。そのドラマを鼓舞するように、風が花びらを揺らしきみが見えなくなるほど一面は真っ白な花吹雪となった。ああ、花びらが散る、花びらが・・・・いちじんの風がほおに告げる。 さだまさし「桜散る」(桜吹雪に Say Goodbye)