櫻井欽一「我が師を語る」の12回目の今回は、櫻井氏が毎日のように文通をしていたという岡本要八郎氏についてです。


石さまざま


「岡本要八郎先生は愛知県西尾の御出身で、郷里で小学教員をつとめておられるころ、近くの青島山というところで緑柱石を拾い、それが機縁で鉱物に興味をもたれたという。明治32年台湾に渡られ、教鞭をとられる傍ら、台湾産の鉱物を調査され、台北近くの北投温泉から北投石を発見された。大正2年、厦門に赴かれ、同地の小学校の校長を22年間勤めた後、福岡市へ引上げ鉱物の研究に余生をおくられ、一時は九州大学で授業嘱託として学生を指導せられたこともある。明治、大正、昭和を通じての鉱物の大先覚であると共に、立派な教育者であった。私は昭和4年の頃、趣味の砿物誌上で、先生を知り、手紙で御指導頂き、昭和35年、先生が86才の天寿を全うせられるまで、ほとんど毎日のように文通をつづけた。先生はよく「私には直接の師はない。当時の大学教授諸先生から郵便を通して教わったものだ。郵便はありがたい」と洩しておられたが、その筆まめなことは無類で、一日一通はおろか、時には二通、三通とたてつづけに送ってこられる。しかも、先生独特の崩し字であるから、はじめの頃は読むのにえらく苦労したものだが、馴れるということは恐ろしいもので、しまいには自由に読みこなせるようになり、先生のお便りで困ってる人に、よく読んで差上げた。私も筆まめでは人後に落ちぬ方であるが、先生にだけは敵わなかった。それでも、晩年の先生は私から差上げる鉱物のニュースをとてもよろこばれ、「東京は鉱物のニュースが沢山あつまるから楽しいね」とよく記してこられた。御子息の正豊氏は東京の日本銀行調査部につとめられ、貝類学界では知名の方である。私は鉱物と貝を通して岡本家二代と御付合いを頂いているわけである。」


次回は高壮吉です。