石さまざま 石さまざま
左は肖像、右は墓所と生家跡

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左は没年の筆跡、右は遺愛の奇石類


斎藤忠の著わした「木内石亭」のはしがきに次のような一文が書かれています。


「寛政9年(1797)に刊行された『東海道名所図会』は、他の名所図会と同じく、東海道地域の名高い山川や神社仏閣や旧跡などを紹介しているが、これを通覧するとき、その巻2に、石山寺や琵琶湖や建部神社等とあわせて、異彩ある一つの記事のあることに気付くであろう。すなわち、「石亭」と題する項目であって、山田の渡口の村中に居る木内小繁という村翁についてくわしく紹介しているのである。」


以前、このブログの「和田維四郎」の項で、江戸時代に「雲根志」を著わした木内石亭の名を出しましたが、今回は彼についてのお話をさせていただきます。ただ、この人物に関する内容は膨大なものになりますので、今回については、先ずは概論的な説明のみとし、今後何度かに分けて深めていければと思います。ご期待ください。


先ず、彼に関する書籍をご覧ください。


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左写真の左から「木内石亭」(1962年、斎藤忠、吉川弘文館)「石 昭和雲根志1」(2002年、益富壽之助、白川書院)「口語訳 雲根志」(2010年、横江孚彦、雄山館)「雲根志」(1969年、今井功、築地書館)

右写真「石之長者 木内石亭全集 全」(1936年、中川泉三、下鄕共濟會)


尚、今回、示す資料写真は全て上記「石之長者 木内石亭全集 全」からの抜粋です。


◇彼の年譜(上記「木内石亭」から抜粋)

1724(享保9)年  近江国(滋賀県)志賀郡坂本村に誕生

1734(享保19)年 この頃より奇石に興味を持つ(当時11歳!)

1743(寛保3)年  木内家の分家となる

1750(寛延3)年  茶人、野本道玄の門に入る

1751(宝暦元)年  物産学者、津島恒之進に学ぶ

1757(宝暦7)年  摂津有馬に1カ月滞留する(わが町神戸にも訪問した!)

1763(宝暦13)年 この頃までに訪ねた国三十数国、採集した奇石二千余種に達する
1773(安永2)年  「雲根志」前編が刊行される

1779(安永8)年  「雲根志」後編が上梓される

1783(天明3)年  「曲玉問答」が著わされる

1788(天明8)年  「百石図巻」が完成する

1792(寛政4)年  「舎利辨」が著わされる

1794(寛政6)年  「著述書目」「竜骨記」「鏃石伝記」が著わされる

1796(寛政8)年  「天狗爪石奇談」が著わされる

1800(寛政12)年 石亭登遊記念碑が建てられる

1801(享和元)年  「雲根志」三編が著わされる
1805(文化2)年  生地の氏神坂本村幸神社に石灯籠を寄進する

1808(文化5)年  3月11日没す(85歳)


◇代表作「雲根志」シリーズ

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この著作は「浪華書林興堂」から発行され、その跋文は当時の大坂における著名文化人である木村蒹葭堂によって書かれています。

前編の内容は5巻から成り、「霊異類」「采用類」「変化類」「奇怪類」「愛玩類」という風に「奇石」を分類しています。その6年後に著わされた後編は、前編の分類に新たに「像形類」「鐫刻類」が加わります。そして、22年後の三編は6巻から成り、新たに「寵愛類」「光彩類」が加えられているだけではなく、前2編に比較すると、かなり学問的な精進が見られます。


しかし、以前ご紹介した近代地質学上の巨人である和田維四郎は「日本鉱物誌」の総論の中で次のように述べています。

「然れとも維新以前に於ても鑛物は全然無視せられたるものには非す、或好事家玩石家と稱する一派の人士は鑛物を愛玩し或は社を結ひ或は各地の同志氣脈を通し其奇品の蒐集を競へり、其研究たるや専ら外觀の奇を主とし、奇怪の説を附會し一も今日の學理上の研究に適ふものなし、彼の近江の奇石大盡と稱せられたる木内重暁(號石亭)と云へる人の如き其一人にして、其著述に係る雲根志(明和年間出版)の如き浩澣の書なりと雖も今日に於て参考となるへき材料極めて鮮なし同氏か採聚せし鑛物中の逸品として特に愛蔵せる二十一種の鑛物(雲根志に記載せる二十一品とは異なる名稱九品あり其物に相違あるや未詳)其遺族より譲受け今予か所蔵に歸す即ち左の如し……(中略;それぞれの奇石に関して、鉱物学上の見解を述べている)……此二十一種を看るに一二を除くの外は其物としては貴重すへきもの多く其の中鑛物に属するものは柘榴石、紫水精、輝銻鑛、玉髄の數種に過きさるも皆な良品なり又化石に属する四種(魚化石、天狗爪石、龜甲石及石卵石)は皆な能く保存せられたる好標本なり(其他は所謂奇石に過きさるものなり)然れとも鑛物學上より之を看れは甚た幼稚にして唯外觀の美又は奇形なるものを鍾愛したるに過きさるなり

と、なかなか手厳しくやっています。


◇石亭二十一種珍蔵と「曲玉問答」
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「二十一種珍蔵」は、彼が最も珍重した品々ですが、これはかつて生野鉱山跡「シルバー生野」にある「鉱物館」に和田標本とともに展示されていたのですが、残念ながら、どちらの標本も、現在は三菱マテリアル(大宮)に移され、非公開となっています。電話で問い合わせたところ、4月には展示室がオープンするとのことですが、今のところ、一般の人への公開は考えていないとのお返事でした。

その21種とは「葡萄石」「玉釜」「錫恡脂」「天狗爪石」「金剛石」「木化玉」「石瓜」「石梨」「石卵」「ナンダモンダ」「青玉髄」「黄玉髄」「赤玉髄」「白玉髄」「黒玉髄」「剣石(2品)」「舎利母石」「貯水紫水晶」「貯水白水晶」「仏光石」です。ちなみに「錫恡脂」は、以前このブログでご紹介した「輝安鉱」だと言われています。


「曲玉問答」は歴史学的にも大変注目すべき著作で、古代の勾玉に関して論じられたものです。

斎藤忠の「木内石亭」によれば①「勾玉をもって、舶来のものでなく、国産であると考えたこと」②「勾玉をもって、葬具というような不浄なものでなく、生前につかったものを土中に埋めた副葬品であると考えたこと」③「勾玉は琉球の土俗において用いられているが、これをもって琉球の製作とみなす説に対し、わが国の古俗の絶えたものが、たまたま琉球や蝦夷の辺鄙では古い習俗として残存したものと考えたこと」④「南都寺院の仏像の天蓋の飾りの連玉の一端に勾玉のあることをもって、持ち伝えた勾玉をもって、天蓋の飾りに用いたものと考えたこと」⑤「好事家によって「曲玉壷」と名づけられているものを批判し、勾玉のはいっている例が稀にあるから、「曲玉壷」と名づけたのであって、壷の中には勾玉ばかりでなく、管玉・臼玉・弾子あるいは古代の金具等もあり、十中八九は空壷であるとみなしている」という5点を高く評価しています。今後、わが国の「ヒスイ」についてもお話ししようと考えているのですが、そのことにも深く関係してくる内容なのです。

石さまざま

82歳の時、生家の氏神であった幸神神社に献上した石灯籠に刻まれた銘文

銘文の内容は、以下のとおりです。


「近江滋賀郡坂本村幸神神社前木内石亭寄進石燈籠銘文


 献 燈


小子年八十餘、老いぬと雖も、益々壮にして、業全く名栄ゆ。実に斯の神の威に依る。性石を好み、珍奇なるもの家に満てり。之を玩び天を楽しむは、世に知らるる所なり。今、木内氏を冒すと雖も、もと社前拾井の家に生まる。老筆、書を題して神に献燈す。後来の二氏の子孫、永く昌え、家運、燈光とともに聯って輝くを是れ願うなり。


文化二年大歳次乙丑秋八月


                                                       木内小繁藤原重暁」