日本の中世の幕を閉じたといわれる豊臣秀吉の第二次奥州仕置、その原因となった九戸の乱の、一方の主役ともいうべきは、もちろん九戸政実だが、その政実と強い絆で結ばれた久慈氏の存在が非常に大きい。

 

1 久慈氏の由来

南部家の祖光行の三男の子孫といわれるが、確実でない。

  南部光行—|—行朝(一戸氏の祖)

       |—実光(三戸南部の祖)

       |—朝清(七戸氏の祖)  (この間十代という、確実ならず)—————

       |—宗朝(四戸氏の祖)                     |

       |—行連(九戸氏の祖)                     |

       |—波木井実長(根城南部の祖)                 |

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  ——信実———————信政—————政継——————治継—————————

     久慈備前守    摂津守    出羽戦死    摂津守      |

     久慈城主                             |

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  ——治義—————信義—————直治—————政則

     (妻九戸氏) |三河守   |備前守    (九戸政実弟

           | (妻九戸氏)| (妻九戸氏)   聟養子)

           |      |  九戸の乱で九戸 養父と共に

           |      |  方に加担、刑死 刑死

           —平藏    —治光

             津軽へ出奔  九戸に加担せず

             大浦家聟養子 摂待久慈家の祖

             (津軽為信)

 

1.この系図の確実性については疑問とする研究者が多い。

2.光行の弟光清(小笠原)が久慈氏の祖という説もある。

 

 久慈は昔から重要な地で、既に、鎌倉時代に、広大な糠部郡と並んで、狭いながらも独立した行政単位として、久慈郡があった。その中心地は大川目である。

 久慈信実が久慈城に入り、久慈郡一帯の支配者となったのは、文明年間(一四六九~八七)と推測されている。

 天正四年(一五七六)、三戸南部の二十四代晴政とその娘婿信直の争いがあった際、一戸南部と久慈がその仲裁をしたという。

 一戸氏は、南部の縁類中では八戸に次ぐ重鎮であり、宗家の内紛の仲裁役をつとめるにふさわしい貫禄がある。久慈氏は、その一戸氏と対等の実力者だったということになる。

二 久慈城

 久慈系図に「久慈修理助養子(南部本宗時政三男)家督の後久慈大川目に館を築て之に居り八日館という」とある通り、地元でも、八日館・新町館などと呼ばれた。

 中世の城郭を紹介した資料や書籍等でも、過去には、「館」と呼ばれたり「城」と呼ばれたり、その呼称が一定しなかったが、天正二十年、南部領内で破却された三十六城の一つなので、間違いなく城であり、今は、「久慈城」の呼称が一般的となった。

 男山の自然を利用した平山城の下に、平常の居館がある形と思われる。そして、城そのものも、空堀で守られてはいるものの、その地形全体を見れば、一旦敵軍に囲まれれば、必ずしも守りに勝れた城とは思えない。

 しかし、見方を変えれば、城に籠て敵を防ぐ必要がなかったともいえよう。事実、久慈城が天正二十年にその役目を終えるまで、この城には戦いの影が差さなかった。

 天正二十年、久慈城破却の責任者となった久慈修理は久慈の一族であることは間違いなく、久慈備前の弟治光ではないかともいわれている。

三 九戸の乱と久慈氏

 日本の中世の終末を飾る九戸の乱(現在、「九戸一揆」という呼称が主流)は、久慈氏の宗家を滅亡に導いた大争乱だが、歴史的には問題の多い『南部根元記』や、荒唐無稽な軍談記のほかは、資料が非常に少なく、色々な誤解も多い。

 九戸の乱の成り行きを簡略に述べれば次のようになる。

 1.天正年間、糠部地域の中で尤も勢力のあったのは、三戸南部氏を中心とする、いわば「糠部国人一揆」であった。

 2.一揆のリーダーに当たる三戸の南部晴政は、武力に勝れ、その指揮の下に結集する領主が多かった。久慈氏も、その重要な  一人である。

 3.一揆の司令官は三戸南部だが、集まった諸将は三戸の家来ではなく、同盟諸国である。その中で、武勇に勝れるのは、三戸の南部晴政と、晴政の叔父石川高信(信直の父)を除けば、九戸政実で、九戸政実の武力は、特に近隣諸国に恐れられていた。

 4.九戸政実は、九戸から宮野(福岡)に進出、九戸城を拠点として、地域の覇権をめざし、周囲の有力諸侯と婚姻を結び、味方を増やしていった。その中で、九戸と最も密接で有力な領主が久慈氏であった。

 5.九戸政実は、遂に天正元年、糠部一揆の指導者、三戸の南部晴政と戦ったが、八戸・久慈の仲裁により和睦する。

 6.三戸南部の幼少の当主晴継が急死。三戸南部の家臣団の協議により、田子の南部信直が後継者となる。クーデターに近い決着であった。

 7.天正十八年、津軽郡代の重臣、大浦為信(久慈の一族。津軽大浦家の聟養子)が、津軽を奪い、津軽為信と名乗る。

 8.津軽奪回を目指す三戸南部信直の動員令に九戸政実とその一党が応ぜず、九戸方につく諸将が多かったのは、政実の武力のほか、秀吉の第一次奥州仕置に不満が多かったせいもある。三戸の有力な一族、一戸政連は暗殺され、三戸南部に従うものは三戸の家臣団と八戸(根城)南部のみ。

 9.津軽と九戸に挟み撃ちされる形となった南部信直は、小田原に参陣、豊臣秀吉への服従を明らかにし、三戸南部の地位を守ろうとする。八戸南部の政栄は、南部の臣下となることを約束し、留守を守る。

 10.信直は首尾よく南部七郡の領主となったが、津軽為信が一足早く小田原に参陣、既に津軽の領主として認可されてしまっていた。

 しかし、津軽は失ったが、糠部地域の諸侯たちは、すべて信直の臣下とされ、信直に背く者は、自動的に豊臣政権への反逆者ということになる。

 11.信直が九戸政実の叛逆を秀吉に訴える。折しも、第一次奥州仕置に不満な旧領主、葛西・大崎氏等の残党が一揆を起こし、奥州の情況はきわめて不安定、秀吉は第二次奥州仕置を決意。六万の仕置軍を宮野に派遣。

 12.天正十九年秋、九戸城包囲、九戸方は勇猛に戦うが、激戦四日、偽りの和議によって政実は降伏。政実一族と、久慈氏をはじめとする主立った一味は三迫で処刑される。

信直は改装なった福岡城(旧九戸城)に住み、福岡(旧名宮野)を拠点として、糠部七郡に号令する。

 13.天正二十年、南部諸城の破却報告の中に、久慈城と種市城の名が見える。破却の実務に当たったのは久慈修理とあり、九戸に加担しなかった久慈氏の一員と思われるが、確実な資料が見当たらない。

九戸の乱の終結はそのまま日本の中世の終末、近世の中央集権国家のスタートを意味する。久慈氏宗家の滅亡も、時代の転換の犠牲であった。

 

参考 

平成十九年 二戸市市史編纂室 奥 昭夫 資料