久慈備前守与三郎信実は、南部氏二十代左衛門佐信時の弟である。

寛保三年(1743)に最初の形が成立した盛岡南部家の系譜「御系譜」によれば、信時は、嘉吉二年(1442)の生まれで、文亀元年(1501)、六十歳で死去した。このことから信時の治世を三十年と考えれば、1470年~1501年が信時の時代となる。

 この時期になると三戸南部氏が南部一族の中から一歩抜け出し、戦国大名への脱皮を進めた。

 

 三戸南部宗家助政の子(二男)信実が久慈治政の娘の婿養子として久慈氏の家督を継いで久慈備前守として活躍したことになる。

 久慈城は、築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487)頃に久慈信実によって築かれたと云われる。

 大永年間(一五二一―二八)久慈城主久慈信実の次男信興は父(信実)の命を受けてこの地に牧場を開き併せて開墾した。

 

「古代三戸年頭御規式之事(『奥南旧指録』附録)」

 「久慈ハ南部二男、家督殿様御指合ノ時ハ御名代也」とある。

 『御系譜』及び『系胤譜考』接待家系図は、戦国期の久慈市は十九代助政の次男信実(兄は二十代信時)が久慈修理助の養嗣子となって始まった家とする。

 

「津軽郡中名字」(抜粋)(『津軽一統志』附巻)

 一戸・八戸・四戸・九戸・七戸、是五人ヲ親類一家ト云也、其ノ後久慈備州生ル、信州ハ備前守ノ子也、又其ノ後東殿・北殿・南殿出生也

 (一戸・八戸・四戸・九戸・七戸、この五人を親類一家と云也、其ノ後久慈備州(久慈備前守信実が久慈氏の養嗣子となったため)が三戸南部の親類となる、信濃守ハ備前守信実ノ子也、又其ノ後東殿・北殿・南殿出生也)

 

 三戸南部氏家臣団(三戸家中)を形成する一族・家臣の構成とその内容は、

(1)「親類一家」…一戸・四戸・八戸・七戸・九戸の五家と久慈家。

「(南部)同名親類」とも呼ばれる独立した一族で、三戸家中には入らない。中でも久慈家は「南部二男の家」の家格をもち、正月儀礼で「家督」=三戸家当主が不都合のとき名代を務める特別の家であったように、彼らは「御一門」以下の諸家とは別格であった。

 

 

帆船ハッカ @kotosakikotoko

歴史系雑語り・陸奥南部氏支族 久慈氏に関する最新研究からみた立場と系統と津軽情勢についての取りとめない話

 

陸奥南部氏の支族であり、津軽藩主・津軽為信の出身でもある久慈家が、現在の研究では南部家内でどのような立場にいたのか、津軽情勢を絡めてまとめられています。

 

南部氏、戦国期は基本的に三戸を宗家としながら一戸・四戸(櫛引)・八戸・七戸・九戸・久慈などの『戸の家』、さらに津軽には三戸分流の大光寺氏、久慈分流の大浦氏・一戸分流の千徳氏がいて、さらに各家の重臣一族領やら中小領主が錯綜している。そしてこの膨大な共同体こそが南部氏。

 

三戸から他家に入嗣しているので今の所確実視されているのは久慈氏だけど、 この久慈氏、最新研究だと滅茶苦茶面白い立場にあったようなんだ。 久慈氏は南部氏における最高序列の家である一戸・四戸・九戸・八戸・七戸などの親類一家の一つに序列し、室町期には三戸南部信時の弟備前守信実が入嗣して『南部二男ノ家』として、三戸で行われる正月儀式に際しては、三戸家当主が不在の際は名代を務める特別な家として位置付けられていた。この辺は元々七戸氏からの分流ともされる久慈氏が、三戸からの入嗣によってその地位を変化させているのを見て取ってもいいと思う。

 

熊谷隆次先生は仮説として、久慈氏当主は備前守・摂津守を名乗るのだけれども、別の一次史料では『信濃守』『右京亮』を名乗る一族がいることを言及している。

津軽氏の史料から、三戸氏の二男(彦五郎・左京亮)が上ノ久慈を、三男(彦六郎・右京亮)が下ノ久慈を支配していたという記述と、この三男右京亮の系が津軽氏の先祖となったとする記述を指摘している。

これらの証拠から、久慈氏の三戸氏入嗣やその動きにある程度の蓋然性が見えてきた。 

久慈氏が15世紀末・三戸南部氏の強い影響下に置かれていたと考えると、同時期に行われた津軽種里への入部も三戸南部氏の指揮下と考える事も出来るわけで、久慈氏の三戸子息入嗣というのは、様々な説が組み直される面白い点なのです。

 

久慈氏が三戸南部氏の子息を受け入れて一時期三戸の藩屏として活動しているということは、その久慈氏の後裔たる大浦為信も三戸南部氏の血を継いでいることになるんだよなぁ。まあぶっちゃけ血縁が錯綜している糠部南部氏内では珍しい事でも特記する事でもない。

 

津軽氏を説明しようとすれば、その出身である久慈氏は根城南部・八戸氏の分家の七戸氏のさらに分家でさらに三戸南部氏の子息を受け入れて三戸南部氏にとっても重要な役割を担い、秋田の仙北地方を支配していたその一族が紆余曲折を経て津軽に来た――なんてややこしいとしか言えない。

 

というか久慈氏、八戸の分家の分家って本来なら他の『戸の家』と並び立てるような出自じゃない可能性あるよな、系譜伝承が正しいなら。曲がりなりにも戸の家に並ぶ地位を得たの、多分三戸南部氏の子息を受け入れ三戸内の家内序列で『家督名代』に位置付けられたから、という可能性はあるか。

 

もちろん、久慈氏という氏族が歴史的過程においてその勢力を十分に拡大したという点は前提として。

 

南部家に伝わる久慈氏系図では久慈信実(三戸南部第16代南部助政の二男とする)の孫の久慈備前守政継が秋田大曲合戦で戦死し、まだ幼少の治継(後摂津守)が久慈に逃げ、その子孫(多くが備前守を名乗る)がそのまま久慈で続いた、とする。

 

対して津軽側の記録では、南部屋形の三男彦六郎(右京)が仙北の一揆により仙北金沢で合戦の後切腹し、家臣が右京の若君を抱えて南部に脱出し、その後若君は長じて本領下ノ久慈に戻り右京亮後に信濃守と名乗り、しその子供は津軽に大浦氏の祖となった光信となった、とする所伝を伝えている。

 

備前守系久慈氏(上ノ久慈を領地)と信濃守系久慈氏(下ノ久慈を領地)の二系統の久慈氏が存在したとする説を前提として、備前守系と信濃守系がいつどう分かれたのか、を考える時に、この所伝の相似はどう考えればいいのかなぁと思うのだけれども分からん二つの久慈氏が同時に似たような事態に直面したと考えるべきなのか、元々は仙北の代官だった久慈氏が体験したことが、一族が二つに分かれた際に形を変えて伝えられたのか。 面白いなぁと思うのは、久慈治継が親を弔うために建立した長久寺、その場所があるのは下ノ久慈。

 

津軽の史料では南部屋形の次男彦五郎が上ノ久慈、三男彦六郎が下ノ久慈を支配したことになってて、この時点で久慈氏が分立したことになるけれども、ならば三戸南部氏から久慈氏に入り上ノ久慈を支配したとされるのが助政次男の信実だから、三男は記録されない助政の三男って事になるのか?

 

久慈信実は大川目の久慈城、すなわち上ノ久慈に入っている。

 

ただ彦五郎=信実・彦六郎=信実の弟、としちゃうと、南部側史料で仙北で戦っているのは信実の孫政継で、津軽側史料では彦六郎なわけで、所伝的には微妙にやっぱり齟齬が出そう。いくらでも言いつくろえるところだし、信実(さらには父助政や兄である信時)の年齢も分からん現状で何とも言えんけど。

 

三戸南部氏における南部信時の中興的な役割が明らかにされてきている現状、やはりその前の代である15代政盛から19代通継に到るまでの流れがわからないとやっぱり室町期南部氏の動向は片手落ちになるなぁ。

 

南部信時、最近の研究成果で注目されている人で、南部宗家である三戸南部氏の20代当主。彼の代に閉伊・津軽を平定し戦国大名としての三戸南部氏の端緒を確立したと考えられている。『英武抜群、遠近恐怖、各帰服』とうたわれたそうで。

 

1491年に種里に入部した久慈氏(後の津軽氏の祖)が、当時三戸南部氏の強い影響下にありその当主が三戸の家督名代を務める家であった、という点を念頭にいれると、三戸南部氏の勢力拡大や久慈氏の種里入部の意味合いも変わるよね。

 

ふと、今更だけど、文亀2年(1502)の安藤教季・藤崎伊予の討伐だけれども、同年に久慈光信による大浦城の築城が行われているの、連動した出来事と考えれるよな。この討伐後に三戸南部の景行が大光寺城とその一帯を支配しているのも含めて、三戸南部氏による指示と考えてもいいかも。

 

1460年代の安東氏による鹿角郡への影響増大や、1470年の安東政季による津軽侵攻に対して、久慈光信の鼻和郡種里入部(1491)や田子康時の外ヶ浜堤浦入部(1498)など、南部氏による支配強化が津軽で進められ、1502年の大浦城進出と大光寺の安東教季討伐がその一つのピークと考えることは出来るかなと。

 

文明年間に津軽に配置された南部十二人屋形城衆、主に配置されているのが岩木山南(岩木川上流)の目屋地区と、岩木山東から後長根川にはさまれた地域なの、安東『後』の対策だったんじゃねえかなぁとちょっと想像している。

 

で、安東教季。彼って15世紀末~16世紀初頭の人物となるわけだけれども、その時期の津軽って南部氏の半ば勢力圏に入っていたわけで、その時代にガッツリ十三湊安藤盛季の後胤が大光寺や藤崎という南津軽平野の重要拠点をしっかりと押さえているというの、めっさ面白いよねっていう。

 

田子康時が三戸南部氏であるのみならず、久慈光信が当時三戸の強い影響下にあり三戸の『家督名代』家であった久慈家の出身である、という点を押さえた場合、この一連の動きは三戸南部氏が主導して行われたんでないかなぁというのは想定できるよね(全ての動きを三戸に帰するのは留保するにしても)

 

南部氏、寛正6年(1465)~応仁2年(1468)にかけて仙北で小野寺氏と抗争の末に敗北し仙北の領地を失陥した、と考えられていて、その仙北の代官とされているのが、久慈光信の祖父に当たるとされている。 安東政季の津軽侵攻(奪還戦)もこの辺の情勢の上で起こったと考えたほうがいい。オモ

 

南部氏本の感想から出た15世紀中期~16世紀初頭におよぶ南部安東抗争の展開 privatter.net/p/7997670 戦国初期の津軽情勢についてはこの辺にも書いたから読んでみてけで。