以前、京都の職人さん達の異業種コラボ作品を集めた展示会に出かけた時のお話。
ある友禅職人さんのコーナーのランプに目が止まった。
布製ランプシェードには友禅模様が染められていた。
私は失礼ながら「この友禅柄が無ければ良いのに」と思ってしまった。
物は機能性が優れていて、素材の組み合わせが良くて、魅力的な色で、フォルムが美しくて、飽きのこないシンプルさがあれば、それで十分商品価値は生まれる。
このようにランプシェードに絵柄が入る事によって商品価値を下げてしまう場合がある。
自らの仕事を他の分野にそのまま置換えているだけでは、本来必要な余白を埋めるだけに終わることになり
「こんなもの、誰が買うんだろう?」という商品になる。
手間の足し算で価値を判断する職人さんが陥る典型的な売れない物を作るパターンだ。
呉服店で「ここにこんな刺繍がなかったら、ここにこんな螺鈿がくっついてなかったら、ここが金銀キラキラしてなかったら良いのに」と言う客の声を何度聞いたことか。
日本の伝統美は引き算の美学であり「余白の美」であると云われているが、それを商品にするのは難しい。
美意識がなく、着物を着る立場で見る事ができない和服製造業者や流通業者は、余白が多いと金が取れないと思い込んでいる。(笑)
さて、日本人の伝統的美意識は奥が深い。
私のような絵描きが、それを突き詰めようすると『余白のパラドックス』に陥ってしまうことがある。
単なる平面的な布や紙ならまだしも、素材や形や機能が既に完成されている物に絵柄を施すことの意味を突き詰めると、「何も描かないのが最良」と言う答えに行き着くことがあるからだ。
時々着物も生地が良くて色やぼかしが良ければ柄は要らないと思うことがある。
私を含めて絵描き(デザイナー)にとって、それは自己の存在否定となる。
これが余白のパラドックスだ。
「付加価値」と「余計なもの」の違いの見極めができてこその一流のプロなのだろう。
私も未だ修行中。