毎日散歩していて、大津市坂本には、こんな石仏群が沢山あることに気付いた。

今から449年前、信長の命令により比叡山延暦寺は焼き討ちされた。
殺害された人数は4000人以上とも云われている。
特に坂本に住む延暦寺門徒衆の女子供までが大量に殺害された。

信長はなぜ比叡山延暦寺を焼き討ちしたのか?


理由は諸説あるが、敵方の浅井、朝倉の兵をかばったからだという説が有力だ。
そこで信長は自分に刃向かうとどうなるか、見せしめのために女子供まで殺したと言うのだ。

坂本の村人達は、怨霊となって比叡山や坂本にさまよう霊を慰める為に大量の石仏を造り、坂本や比叡山麓のあちこちに安置した。
それがら近年坂本の宅地造成や田畑の開墾の際に地中から見つかり、その度に集められてこのように安置されている。
今では坂本のあちらこちらにこのような石仏群が存在している。

ところで、明智光秀はこの焼き討ちの実行部隊の中心人物だったのを皆さんはご存知だろうか?

信長の命令とは言えど、自分が焼き討ちした坂本を、今度は自分の城とその城下として再興することになった光秀。
自分が焼け野原にした地に立ち、彼は何を思ったのか?

その後の信長と光秀の運命を思うと、感慨深い。

 

成願義夫