本阿弥光悦の名言
『心が凝り固まっていては見えないものも、
力を抜いて素直に見ると、いろんな顔が現れてくるだろう。
心を開いて受け止めるなら、この世のすべては美しい』
本阿弥光悦と俵屋宗達の合作 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』
本阿弥光悦
京都の※本阿弥家という恵まれた家柄の長男として生まれた彼は、幼い頃より家業を通じて日本の一流の物に囲まれ生活し、高い見識眼を身につけていった。そしていつしか自らもマルチな才能を発揮するようになる。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した彼はまさに日本のレオナルド・ダ・ビンチの様な存在だった。
特に書の世界では「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。
晩年徳川家康からあたえられた洛北鷹峯に芸術村(通称、光悦村)をつくった。
寛永14年2月3日死去。享年80歳。
光悦が40歳頃、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。
光悦は彼の才能をいち早く見抜き、チャンスと助言を与えた。
その後、宗達は『風神雷神図屏風』などの名作を次々に生み出していった。
そしてこの後、宗達は尾形光琳に影響(私淑)を与え、更に酒井抱一に影響が受け継がれていったのは、皆様ご周知の通り。
俵屋宗達 風神雷神図
後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。
※本阿弥家は足利尊氏の時代から刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする名家