北山殿が衣笠に上棟された明徳四年からしばらくたった夏のとある昼下がり、
室町幕府第三代将軍足利義満は、けんらんたる花車(御所車)に乗っていつもの様に北山
殿の別邸へ向かっていた。


北山殿といえば、義満が、巨大な費用と人力をついやして造営した隠居所。

金閣寺もこの山荘一部で、義満は、ここに当時の名僧や芸能人を集めてはしばしば盛んな集会を催した世に北山文化と呼ばれるに至ったも、この山荘を中心にして、当代の文化が一時に開花したからである。

この日も、お付きのものを多数したがえ、山荘へ向かっていたわけだが、たまたま現在の千本通寺之内にさしかかったところで、花車が破損した。
「殿、お車の調子が悪うなりました」
「ナニ、車が、すぐ直らぬか」
「それが、車輪が傷んだようで、車がまわりません。申し訳ございません」
やがて代わりの車が到着し、故障した車を持ち帰ろうとすると、
「車輪のこわれた車などほうっておけ。そっくりこの町にあたえるがよい」
かくして、将軍お召しの”ほまれ高き車”はそのまま町へ残された。

時の権勢を一身に集めた将軍じきじきのおことば、町民の喜びもひとしおだった。

現在、千本通をはさんだ寺之内下ルの一角が「花車町」の町名になっているのは、この時の光誉のなごりという。
この時の花車は、いまも、花車町近くの五辻通七本松、千本釈迦堂に車輪だけが保存されている。

以前は本堂の片すみに置いてあったが、今は、他の寺宝とともに、収蔵庫の中に。

車輪は直径2メートルもあろう。大きくて頑丈で、華やかな、車輪からだけでも、将軍の時の権勢が十分うかがえる。

この絵のように実際に花を飾る車を花車と呼ぶようになったのは、これよりずっと後のこと。 

 

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