妖怪とか好きなのは、
子供の頃、
ウチにあった本からだと思う。
『ブルートレインおばけ号」って本で、
ココから妖怪に触れたし、
ココで水木しげる知った。
そのあとは当然鬼太郎とか好きだし、
そこそこ長じてからは、
京極夏彦読んで、
そっから昔の絵だったりも興味が強くなった。

前にも書いたけれど、
その京極さんの本の中で、
妖怪ってモノは何なのかを描いてる部分があって、
曰く、彼らは「概念」である、と。

暗がりで、前に進めなくなるって現象を、
「塗り壁」と。
建物がミシミシ言う現象を、
「家鳴り」と。
何か背筋がヒヤヒヤする気分を、
「ぶるぶる」と、
名前や姿をつけて見せる事で、
得体の知れない恐怖に対処法を付ける事が出来る。

概念だから、
本来は姿は無くて、
実像のない、でも、そこに存在してる、
無いのに、在る。

そうなると、

我々の様な表現者、
書く描く歌う奏でる演じる行為はあるけど、
全員がそうとは言わないけれど、
人物としての自分と、
作って表す自分は違う場合、
その、「表現」の部分は、
只の概念と言う点で、妖怪と同じなんじゃ無いかと思う。

例えば、
製作者がもう亡くなっても、
作品は残ってるし、
記憶には残ってる。

誰かの意識の中に在るその概念は、
作った人からはもう離れたモノなんじゃないか。



先の本の中で、
だから、記憶や記録に残ってい無い妖怪は、
消えるし、消えたって事さえわから無い、
はなから無いのと同じになる、
って様な話がある。


必要だと、楽しみだと、待っていると、
思ってくれる人がいなければ、
表現者って妖怪は、
無いのと同じだし、
むしろ無いべきかも知れない。


でも、
例えばなかった事にしても、
自分が生きている間は、
自分の中にだけいつまでもダラダラ居座るんだろう。
迷惑な奴だと思う。