2001年4月の、高橋三郎先生の記述から(*本文のままではありません。本文は下記の著書をご参照ください);
(教文館版 高橋三郎著作集、最終巻、p.713〜715)
自己抑制について
東京都昭島市にあるナオミ保育園の創立者である倉賀野昌子さんは、22年におよぶ幼児保育の経験に基づき、
世の多くの親が「自由にのびのびと」子どもを育てようとしている風潮に、キッパリと反対を表明して、
生後満6歳までの幼児期にこそ、
自分の感情をコントロールする
自己抑制の訓練を与えることが、
その後の成長に決定的影響をおよぼす
幼児教育の要(かなめ)であることを、
力説してこられた。
しかし現実には、誤った保育理論が横行し、
自主性の尊重という美名のもとに子どもを放任する
手抜き保育が行われ、正しい成長が阻害されている
痛ましい実例が後を絶たない。
そのため、およそ我慢するということを知らぬ子どもが
数多く小学校に送り込まれている。
ここから、学級崩壊という悲惨事さえ由来する。
倉賀野昌子さんはこの窮状を黙視できず、
幼児期にこそ、親や保育関係者は十分に時間をかけて
子どもと関わりを持ち、
自分の感情をコントロールする
自己抑制の訓練を与えなければならない
ということを強調しておられる。
それだけではなく、ご自分の保育上の実験を通して、
責任の主体としての良心的人格が数多く形成されたことを、実証的に報告しておられるのである。
心理学者フロイトも、こう語っている;
「文明は根源的な衝動の満足を断念することによって、
打ち立てられてきた。
ひとりひとりの人間が
自己の本能的快楽を、共通の善のために諦めることを繰り返していけば、文明はかなりな点まで永続的に改造されていく」。
つまり本能と衝動を訓練によって抑制することこそ、
文明社会が存続すための基礎だ、と言うのである。
また歴史家 J.D.アンウィンは多くの文明を研究した結果、次のパターンを発見したと言う。
「どの文明も、厳しい道徳律を守ることによって、
打ち建てられ、強化されてきた。
厳しい道徳律が守られている間は、
いかなる文明も続き、保たれているが、
性が自由になり、その放縦がまかり通るようになると、
きっと滅びる」。
ここに引用した(フロイトとアンウィンの)言葉は、
いずれも性の放縦がいかに文明社会を崩壊させるかという危険に対する警告である。
性の問題が生涯にわたる重い課題であることは、
改めて言うまでもない。
しかし生後間もない幼児期にも、
すでに形を変えて、感情の自己抑制という課題が与えられているという倉賀野さんの指摘は、
成人した後に人が経験する性的葛藤の前触れが、
すでに早くから違った形で始まっていることを、
指摘する警告であろう。
★「聖杯探求」について(追加:7/14)
世界精神における「聖杯探求」神話の源流は、ケルト神話ではなく「イシスのオシリス探索」の神話であるとわたしは捉えている。
―――神話のイシスの探求において問題なのは、
探求における「人格的結合」の要素が弱いことである。
宇宙が巨大な人間であるとすれば、それを理解できるのは「人格的結合」、あるいは「人格的に信頼して共に歩む」という結びつきにおいて、である。
人格は、全面的な信頼に基づく結びつき、そして共に歩む、という信頼と共生なくして理解できるものではない。そして現代のキリスト教一般は、これを「人物崇拝」と断定することによって真理を取り逃がしたとわたしは見ている。そのような姿勢で問題を受け止める限り、神の子キリストがなぜ人間としてこの世に現れて来なければならなかったのか、ということを本当には理解できないのではなかろうか。
ーーーなるほど、イシスはオシリスを発見すると結合し、ホルスを生むが、探求途上においてあったものは何なのであろうか?
探求途上の内面は、彼女はオシリスと共に生き、探求していたのだろうか?
イシスを突き動かしたものは探求心なのだろうか、それともオシリスへの共生的な愛だったのだろうか。神話構成では、それが明確に捉えられているとは言い難い。
ーーーこの新たな真理探求は、ヘブライ世界の「モーセが神ヤハウェと共に歩み」、”葦の海”を渡ってカナンを探索する神話へと継承されて、さらに深い世界探求の精神史が刻まれていく。
モーセはヤハウェと共に歩み、”葦の海”を渡った後、「死の砂漠」を越えて進んでいく。だが、彼自身はカナンに到達することはなく、途中で人生を終わるが、後継者ヨシュアが民を引き連れてカナンへ到達し、「部族共同体」という未だどこにも存在することのなかった新しい世界を創造していくのである。ここには、驚くべき二重構造の結合関係の秘儀が込められている。
モーセの、ヤハウェへの信頼と後継者ヨシュアへの信頼という、しかも死命をかけた結合関係である。人間の新たな精神史は、ここから始まったのである。
佐渡山 豊