樹の沈黙を聴く | 太陽の船に乗る

太陽の船に乗る

ディオニュソスの白夜をゆく

Krishnamurti to Himself / His Last Journal, 1983.2.25 in California

『最後の日記』高橋重敏訳、平河出版社 p.10〜p.13より(*1部訳文を変更)

 

 

 河のそばに樹があって、われわれは日が昇るとき、数週間も毎日それを眺めていた。地平線の上に、樹を越えて日がゆっくり昇るにつれて、くだんの樹は突然、金色になる。あらゆる木の葉がいのちで生き生きとし、それを見守っていると、時間が経つにつれて、名前などどうでもいいその樹ーー大事なのはその美しい樹なのだーーその途方もない本質は、地上いっぱいに河を覆って広がるように見える。

 

 

 日が少し高く昇ると、葉はひらひらと揺れ踊りはじめる。そして1時間ごとにその樹の質は変わってゆくように見える。日の昇る前は、くすんだ感じで、静かで遠く、威厳に満ちている。そして1日がはじまると、木の葉は光を浴びて踊りだし、偉大な美のあの特別な感覚を帯びるのだ。日中までにその影は深まり、そこに座って、太陽から護られ、決して寂しさを覚えることもなく、その樹を友としていることができる。そこに座れば、樹だけが知ることのできる、深く根づいた安心と自由の感覚がある。

 

 

 夕刻に向けて、西空が沈みゆく日の光を受ける頃、その樹はしだいにくすみはじめ、暗くなり、それ自体の中に閉じこもってしまう。空は赤、黄、緑と変わるが、樹は静まり、隠れ、夜の眠りに入る。

 

 もしその樹と関係を持てば、人間との関係も持てるだろう。そのとき、その樹に責任を感じ、世界中の樹に責任を感じるだろう。しかし、もしこの地上の生きものと関係を持たないなら、人間とのあらゆる関係も失われるだろう。

 われわれは決して樹の本質を深く掘り下げて見ない。われわれは決してほんとうにそれに触れ、その固さとその荒い樹皮を感じ、樹の1部であるそのひびきを聴かないのである。木の葉を通り抜ける風の音でも、木の葉を揺るがす朝の微風でもなく、それ自体のひびき、樹の幹のひびき、樹の根の沈黙したひびきである。そのひびきを聴きとるには、途方もなく敏感でなくてはならない。このひびきは、この世の騒音でも、心のざわめきでも、人間の争い、人間の戦いの野卑さでもなく、宇宙の1部としてのひびきである。

 

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 もしわれわれが自然と深く根づいた関係に入ることができるなら、食べるために動物を殺したりは決してしないだろうし、猿や犬やモルモットを自分たちの利益のために損なったり、生体解剖したりは決してしないだろう。われわれの傷や身体を癒す別の方法を見つけるだろう。しかし、心の癒しは何か全く別のものである。もしわれわれが自然とともにいるなら、樹の上のオレンジと、コンクリートを突き抜ける草の葉と、雲に覆われ、隠された丘陵とともにいるなら、その癒しは徐々に起こってくるのである。

 

 これは感傷でもロマンティックな空想でもなく、地上に生き、動きまわるあらゆるものとの関係の実態である。人間は幾百万の鯨を殺し、いまだに殺しつづけている。それらを殺すことによって得られるあらゆるものは、他の方法でも手に入れられるのだ。しかし、明らかに人間は生きものを殺すことを、逃げる鹿、素晴らしいカモシカ、巨象を殺すことを好む。お互いを殺すことも好んでいる。他の人間を殺すことは、この地上の人間の生の歴史を通じて止んだことがない。

 もしわれわれが、自然や現実の樹木や薮(やぶ)や花や草、そして流れる雲と深く長い関係を持つことができるなら、ーーまたそうでなくてはならないのだがーーどんな理由があろうとも他の人間を殺すことは決してしなくなるだろう。

 

 

 組織化された殺人が戦争である。そして、われわれは特殊な戦争、核や何かの戦争のデモはしても、戦争反対のデモは決してしない。われわれは、他の人間を殺すのはこの世の最大の罪悪だとは決して言ったことがない。

 

                  (*以上、K、88歳『最後の日記』よりの1部)