クリシュナムルティ『ヨーロッパ講話 1967年』から(完) | 太陽の船に乗る

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ディオニュソスの白夜をゆく

クリシュナムルティの『ヨーロッパ講話』から私訳:1967年9月30日/ロンドンにて(完)

 

 言葉はただ伝達の意味を持つだけであり、当の事物ではありません。言葉、つまり象徴は、事実ではありません。そして、人は言葉に捕らえられると、自分自身を事実認識の妨げとなる象徴、言葉、思想から脱出させることが非常に難しくなります。人は言葉を使わなければならないにも拘らず、言葉は事実ではありません。ですから、もし私たちが言葉は事実ではないことに気づき、それを見張り続けられるなら、私たちは(真実なものは何かという)この問いかけに、非常に深く進入し始めることができるのです。

 

 
 人は自分の孤独と絶望の範囲内から(それに条件づけられて)、自分の手やマインドによって作り上げた思想、イメージに、神聖さを与えてきました。(※人は自分の弱さのためにゲンをかついだり、川原から石ころを拾ってきてそれをお守りにする。その、ゲンと石ころに与えた神聖な意義のすべては、〈弱さ〉と〈願望〉に条件づけられたものであり、その範囲を超えられるものではない。それゆえ、それは真理ではないのである。すべての偶像崇拝、呪術、密教は、このようにして起こる。この真理性が、いささかの曇りもなく完全に理解できるなら、私たちはそれに類する一切を乗り越えることが出来る)。
 
 
 イメージは、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒その他の、それらに類するものにとっては驚くほど重要なものとなります。そして彼らは、そのイメージの中に神聖さの感覚を与えるのです。私たちは、それを私たちの傍らへ払い落とせるでしょうか――言葉の上ではなく、理論的にでもなく、実際にそれを傍らへ押しやることが、――そのような営みの無益さを、完全に見れるでしょうか? それから、初めて私たちは(神聖な何ものかを)問うことができるのです。
 
 
 だが、答えられる人は誰もいません。なぜなら、私たちが私たち自身に投げかけたどのような根本的な問題も、誰によっても少しも答えられず、とりわけ私たち自身にとって答えることができないからです。しかし、私たちにできることは、その問題を提起し、それをぐつぐつと煮詰め、沸騰させ、――そのようにしてその問題を進展させることです。そして、人はその問題をまっすぐに(正しく)追求する能力を持たなければなりません。象徴、言葉を超えた、どのような実際の、真実の、それ自身の中で完全に神聖な、何ものかがあるのかどうか、――それが、私たちの問うていることなのです。