それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」と批判し、「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」とまで言った。森はそれを聞いて「処刑すべきだ!」と言い放ち、「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。
榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。ここで筆者は広辞苑をひいてみるが、そこには「総括=別々のものをまとめ合わせること。全体を総合してしめくくること」と書かれている。が、連合赤軍で行なわれた総括とは「同志全員の前での自己批判」つまり公開懺悔であり、これを体験することこそが「革命戦士として生まれかわるための洗礼」とされていたようだ。だがこの「総括」の実体が「粛清」になっていくまでに長い時間はかからなかった。
まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」と批判。だがこのときは遠山が「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。ターゲットは加藤能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、「検察で完全黙秘を通さなかった」、「官弁以外の食物を口にした」、「合法派と接触した」といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。次に、加藤と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で「犬!」「日和見主義者!」と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。
28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、「紙をとってくれ、息が出来ない」と訴えた。それを聞いた永田が「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。加藤と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は「プチ・ブル的言動」、「女好き」、「幹部への尊敬の欠如」など。まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、加藤と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。 1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。2日、加藤は屋外から小屋の中へ移された。2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に「女を捨てていない。革命戦士らしくない」というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。4日、加藤能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。薪は遠山の性器にも押しこまれた。7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。9日、行方が死亡。18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。永田は「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は「目が、目がまわる。水、水」を最期の言葉として息絶えた。31日、森は「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」とその死体を足蹴にしたという。2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。
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団塊の世代のおじさんのブログを勝手にはってごめんなさい。力はいってるよ。おじさん。