今年のノーベル賞、村上春樹はまた外れました。
ファンの方は多分落ち込むでしょうが、昔からちょっと思ってたんですけれど、「取れないのではないですか」と。
思えば、私の日本文学の啓蒙教授は村上春樹の翻訳者であり、私自身も村上文章を一時愛読してました。
恥ずかしい話ですが、早稲田の演劇博物館で、村上を真似して小説を書いたこともあります。
しかし、いい文章とは言え、必ずしも「ノーベル賞」によって証明させる必要があると思いません。
まして、ノーベル賞はいろんな意味でエゾッチクなものに対し、表彰しがちな賞でもあります。
前回、中国の莫言が「中国籍」で初めてノーベル賞を取りました。
その作品は、一言で言うと、「泥くさい」!
とてもなまみの中国農村部の光景と人の葛藤を描いていました。
ノーベル賞の作品の多くはこうした「その土に土着している踏ん張る生命力」を讃頌しているのではないかと思います。
一方、村上春樹の作品は「人間」について、とても繊細なタッチで描いてますが、
残念ながら、その食、住と嗜み、本当に洒落な「洋風的」です。
欧米色に染められた多くの都会人の代弁者にはなれますので、国籍超えての多くの「都会人」の心を得たのでしょう。
10年前から、上海のホワイトカラーが「マックブック」「スタバ」と「村上春樹」をステータスにしているそうです。
MacBook→苹果(pingguo/ピンゴォ)
スタバ→星巴克(xingbake/シンバーカッ)
村上春樹→村上春树(cunshangchunshu/ツゥンシャンツゥンシュ)
洒落すぎた村上春樹の作品には日本の大地の泥臭さがあまりしないですね。
また、欧米色に染められたコピー文化なら、土着の欧米文化にはとうてい敵うことはないでしょう。今回のノーベル文学賞はまさにそれを証明しています。
審査員が「欧米侵食文化」の大支持者でない限り、村上春樹はまだまだノーベル文学賞には遠いのではないかと。
もちろん、あくまでも浅見にすぎませんが…