言論の自由とは、
言うけれど、
日本人にとって、
戦後の自由は、
勝手自由であって、
それが、いよいよおかしなことに、
なってきた。

欧米社会の、Godのもとにひざまずく、自由とは
日本社会とは、違うのである。

敢えていうなら、神道の神に日本人は、ひざまずく。
仏教は、慈悲である。
慈しみであって、ひざまずくとは、言わない。

観念は、同じであるといってもよい。

だけど、欧米社会の聖書においては、
神は、ただひとつである。
最初から、最後まで、一貫して、唯一である。

それに反して、日本では、神は、種類がある。
その神によって、得意分野がある。

これが、どうにも欧米人には、理解できないらしい。

その中で、極致までいくと、混沌としている。
これが、理解できないようだ。

それでも、いま起こっている、
社会現象は、自身の勝手によって
騒動を起こしているとは、言えないか。

日本人にとって、自由とは、
共感しあって、お互いに喜びあうこと。
それが、自由のような、気がしてならない。

欧米人の個の概念は、
そこから、妨害、摩擦を乗り越え、
自分が、開放されることでは、
ないだろうか。

そういう、大切なこと、祈りを、
現代人は、科学万能の観念に捉われ、
すっかり考えなくなってしまった。

求められることは、
実行性である。

本当か?

偉そうな文章より、
どんな人生、どんな暮らしをおくかによって、
すべて、神様に判断される。

人間界の、価値判断で、見せかけの
判断は、真実ではない。

裁きは、神様におまかせすることにして、
裁いては、いけない。

そう思うと、好き勝手言って、
人を傷つけることは、
神様の存在を否定して、
自らを否定することになる。

それすら、考えない愚か者が、
恐ろしく威張って、闊歩している。