第三者だから、書けるかもしれない。
教育は、必要である。
教育があれば、先人が考えついたことを
短期に習得し、
答えを見つけることができる。

しかし、教育というものは、
先人が考えついたことで、
ストップしてしまっている。

ここが、勘違いしやすい点だ。
 
何か高度なものを学んで、それで何でも可能かというと、
そうじゃない。
それで、どれくらい習熟しているか、
試験というものを、やってみる。
これで、順番が先にくると、それで序列ができて、
あたかも、その順番で偉いものだと勘違いしてしまっている。

そこから、もっとも尊い事は、
それをベースに、更に発展させることだ。

これが、ものすごくむつかしい。
答えは、まだ誰も見つけていないからだ。

勉強のしやすいよい環境に入れば、
その効果は、とてもよいから、みんな競って
高度な競争の激しい学校をめざす。

それで、その順序ができてしまうのだ。

昔は、そうだった。今は、違う。

今は違うけど、高度な学問が、身近で習得できるか
というと、そうではない。

本当のエリートをめざすのは、バランス感覚の優れた
少数者だけだ。

十把ひとからげに、同じメニューで、同じように学び
それの出来不出来を競い合うだけの競争は、
無意味である。

今、文学が全然面白くない。
流行歌などの歌も、全然だめだ。

なぜかというと、生活観がないからだ。

今の僕には、まだ3人しか知らないが、
股旅ものの、長谷川伸、
歴史物語の、吉川英治、
人情ものの、山本周五郎。

これらの小説家は、小学校しか出ていない。

もっと高度な勉強しなければ、小説など、
とても書けない。
それでも、いろいろ仕事やりながら、独立独歩で
体得していった。
その苦労を乗り越えて書いていったから、
その観察眼は、とても優れ、
そして、万人を納得させる力を持っている。

平成の文学者はどうか。
学校というボックスの中で、
カラオケボックスに入って、
仲間内の共感で終わるように、

不条理、冷徹な社会には、
太刀打ちできなくなっている。

その中(教室の中)で学ぶ内容が、
勉強ではない。
教室の中で、友ができて、
そして、いろんな人から学び、
励ましあっていくのも、勉強である。

逃げてはいけない。

学校教育を終えた時、
僕は、あぁ、これで自由になれる。
楽になれると思った。

ところが、現実はそうじゃない。

今、十把ひとからげに言うと、
今の人の取り扱いは、食肉になっていく
オートメ化した工場の中の、
ブロイラーみたいなもんだ。

そこでの優劣が、何が役に立つだろう。

勉強しなければならない。
環境も材料も、今はいっぱいある。

足りないのは、その中に飛び込んで
やり遂げる意思である。

過去は、そのブロイラーが、
全員上っていくことができた。

今は、意志力がない。
食肉になって、
弱肉強食にならないよう、、、。

祈るばかりである。