昭和51年か52年の4月上旬の事であったと思う。当時、大学院生だった私は初めて中古で買った愛車カローラで独りで十和田湖まで行こうと思い立ち、東京を朝早く出発し、東北自動車道に乗った。当時東北自動車道は岩手県の滝沢ICまでしか完成しておらず、そこで下りて、そこからは一般国道を走ることになった。それまでの東北自動車道(福島、宮城)では何の問題もなく走ってこれ、滝沢ICから高駆動を30分くらい走り始めてから、道路の両脇に雪が積もっていたのが見え始めて来出したが、冬に降った雪が解けたんだろうと安易に考えそのまま進むと、トンネルに差し掛かり500メートルくらい直進して出たとたん、何と道など全く見えない白銀の原野に突入してしまった。雪原の中にポツンと1台車が立ち往生した形となった。まさしくトンネルを抜けると別世界の雪国であったというフレーズを思い出したのだった。

 トンネルの手前約20kmくらいのところに温泉地があってそこまでは車の行き交いもあり、そこを過ぎてから1台も対向車とすれ違わなかったのが不自然と言えば不自然だった。時刻は17時くらいの夕暮れ時だった、トンネル出口までバックしようとしたがタイヤが滑って動かない。ふかせばふかすほどタイヤは下に空回りして沈んでいく。トンネル出口までは20メートルくらいなのでその間を手で雪を掘り、コンクリート地面を出せれば戻れると安易に考え、少し掘ったが寒すぎてすぐ挫折した。思えば東京でしか暮らしたことがなく、当時は冬の雪と言ってもチェーンを巻くほどの積雪なんて経験したこともなかったし、何も装備などして来ず、服装も春物のジャケット1枚という軽装、車外に出ると寒さで凍えそうになり、暖房のきいた車内に閉じこもってしばらく考えた。クラクションを鳴らして助けを求めても空しく雪原に響くだけで、今のように携帯電話など無かった時代だから助けは呼べない。車から下りて徒歩で20㎞くらい戻れば先程の温泉地に着くだろうけど着くのは当然真夜中になるだろう。とにかく外に出るのは寒いので車内に籠城するしかないと諦めた。

 外は雪が降ってはいなかったが風が吹き始め、積もっている雪が舞い始め車のボディーやウィンドウに白くへばりついてきはじめ、一段と心細くなってきた、その時だった。はるか前方の道なき道からもうもうと白い雪煙を吐きながら大きな物体が近づいてきた。初めのうちは何がやってくるのだろうと思ったが、それが私の車の横に止まって初めてわかった。タイヤは重厚なスノウスパイクを装備した大型バスだった。そしてそれは今のJR、当時の国鉄のバスだったのだ。乗客が数人下りてきてくれて事情を話したら車をトンネル出口まで押してくれると言うのだ。そこで私が運転席に座り、その数人の人達にトンネル出口まで車を押してもらったのだった。有難いことにその間バスは待っててくれていていた。車がトンネル迄戻ったところでその中の1人が私の車で行くことになり、残りの人たちはバスに戻り、バスは発車して行ってしまった。

 私の車に一緒に乗ってくれた方と先程も言った20km手前の温泉地まで戻り、その方はそこで下りたのだが、道々話したところ、あのまま私が車の中で雪原に籠城していたら、翌朝は間違いなく凍死して、ローカル新聞に載っていたということらしい。それを聞いて後からゾッとしたことを今でも覚えている。無知ということほど恐ろしいことは無いと言うことをつくづく思い知らされたのだが、今でも心残りなのはそのとき助けて頂いた方々の情報を全く聞くのを取り乱していて忘れてしまい、命の恩人の方々に未だかつてお礼ができていないのが悔やまれてならない。