昨日、友人を駅まで見送りに行きました。
改札口はたくさんの人で混み合っていて、私たちは少し端に立ちながら、どうでもいいような話を何気なくしていました。
そして彼女が「じゃあ、行くね」と言い、私は「うん」と答えました。
彼女はそのまま人の流れの中へ歩いていき、私はその場に立ったまま、少しずつ小さくなっていく背中を見ていました。
そして角を曲がった瞬間、見えなくなりました。
私はしばらくその場に立ってから、ゆっくり帰る方向へ歩き始めました。
電車の中は人でいっぱいでしたが、イヤホンをつけていても何かを聴いているわけではなく、ただ周りの音が遠く感じました。
家に帰ってソファに座り、電気もつけないままいると、ふと部屋が前より少し広く、そして少し寂しく感じました。
私は別れが苦手です。
「さっきまでそこにいた人が、突然いなくなる」
あの感覚がどうしても苦手なのです。
短い別れでも、長い別れでも、友人でも家族でも、振り返って歩き出すあの瞬間には、どこからともなく言葉にできない寂しさが込み上げてきます。
まるで心の中の小さな場所が、ふっと暗くなるような感覚です。
私はずっと、別れというものは一生かかっても上手になれないものだと思っています。
笑顔で手を振りながら「またね」と言う瞬間。
閉まっていくドア。
切れてしまう電話。
遠ざかっていく車。
そのたびに、もっと上手にできたはずなのにと思います。
もう一言、何か伝えればよかった。
もう少しだけ顔を見ていればよかった。
あの時間をあと少しだけ長くできたらよかったのに。
でも、いつも同じです。
その場では何も言えず、相手が遠くへ行ってしまってから、ふと思うのです。
「あの時、抱きしめればよかったな」と。
そんなことを考えているうちに、どうして私たちはこんなにも別れを怖がるのだろうと思うようになりました。
きっと別れは、向き合いたくない現実を思い出させるからなのかもしれません。
時間は流れていくこと。
人は変わっていくこと。
どんな関係にも、それぞれの形と期限があること。
ずっと続いていくと思っていたものも、実は少しずつ終わりへ向かいながら存在しているのですよね。
別れが苦しいのは、自分がどれだけその人を大切に思っていたのかを気づかせてくれるからなのだと思います。
その場に残って、相手の背中を見送る人は、心の中で簡単には手放せない大切な存在です。
結局、別れの痛みは逆の意味での確認なのかもしれません。
その関係が自分にとって大切だったこと。
その人が自分の心の中にちゃんと居場所を持っていること。
でも、別れというものは同時に、とても公平なものでもあります。
別れがあるからこそ、会える時間が特別になる。
もしすべての再会が永遠に続くものだったら、私たちは強く抱きしめることも、相手の話す表情を大切に覚えておくことも、何気ない小さな瞬間を愛おしく感じることもなかったかもしれません。
いつか離れると知っているからこそ、「一緒にいる時間」を大切にできるのだと思います。
宮崎駿さんの『千と千尋の神隠し』に出てくる、こんな言葉を思い出しました。
「人生は一列の列車に乗って墓場へ向かうようなもの。旅の途中にはたくさんの駅があり、最後まで一緒に走り続けられる人はほとんどいない。共に歩いてくれた人が降りる時は、たとえ寂しくても感謝の気持ちを持って、手を振って見送るべきなのだ。」
私はきっと、これからも別れに慣れることはできないと思います。
次に誰かと別れる時も、きっとその場に立ち尽くして、心にぽっかり穴が空いたように感じて、相手が遠くへ行ってから言えなかった言葉を思い出すのでしょう。
でも、少しずつ受け入れられるようにもなりました。
私は、さよならが得意ではない人間なのだと。
得意ではないことは、弱いことではありません。
大切に思っているからこそ、離れることが寂しいのです。
もしかすると、別れの本当の意味は、失うことに慣れるためではなく、別れを経験するたびに、自分が何を大切にしてきたのかを知ることなのかもしれません。
空いた場所。
あの瞬間の寂しさ。
伝えられなかった一言。
それらは後悔の跡ではなく、「確かにそこに大切な時間があった」という証なのだと思います。
別れは、一生かかっても上手になれないものなのかもしれません。
でも、もし上手になれない代わりに、出会った人との時間を毎回大切に心に残せるのなら、それでもいいと思えます。
次に別れが訪れるまで、今そばにいてくれる人を、ちゃんと大切にしたい。
それだけで十分なのだと思います。
あなたは、別れを上手に受け入れられるようになりましたか?
