もういい、そう叫んで家を出た。持ってるのはスマホとイヤホンと財布だけ。財布の中身を確認したら2000円とちょっとだけ入っていた。初秋の夜の空気は澄んでいて、頬にぴゅうと吹き付ける風は早くも冬の気配を孕んでいる。半袖に厚手のパーカー1枚だけで家を出たのをもう後悔し始めた。やらかしその1

 母と娘という関係性。あなたのこと何でも分かってるよと言いたげな顔をしておいてあの女は私の事なんかちっとも分かってくれやしない。ふざけないでくれどうして私がこんな思いをしてこんな夜中に独り道を歩かねばならないのだ。クソ、さっきの言い合いを思い出したらまた涙が出そうになって、ぐぅと唇を噛みしめて空を見上げた。綺麗。秋の星座はペガスス座、って習った気がする。どれとどれをどう結べばペガススが空に見えるようになるんだろう。


 パーカーのポケットに入っていたスマホが震えた。母か、アイツか。ちょっとやめてよ、どちらにせよ今ひとりになりたいんだから。誰も話しかけないで欲しいのに。そんなことを思いながらも、その画面に表示された名前を見た途端ワッとその場にしゃがみこんでしまった。一度押せばもうそれでいいのに何度も何度も通話ボタンをタップする。う、う、と声にならない呻き声が喉から洩れた。

 

……もしもし』

 4Gで繋がったスマホの向こうの声は少し上ずっていて、ああどうしてこの男はこうも格好つかないのだろう。電話を繋ぐなどこれが初めてじゃないだろうに。思わぬ所でクスリと笑ってしまう。しかしクスリと笑いながら、そのあどけない声が耳に届く嬉しさに必死に涙を堪えた。ダメだダメだ、今はまだ泣いちゃダメ。

「もしもし、どうしたの」

『いや、何か声が聞きたくなって』

「キモ」

『キモって何だよ』

「声が聞きたくなって、って何よ」

『うるせぇ』

 よろよろと立ち上がり、ゆっくり街灯が照らす通学路を歩き出す。スマホを耳に当てるのが面倒になってスピーカーモードに切り替えた。夜道にいとしい声が小さく響く。

……どしたん』

「なにが?」

『いや泣いてるじゃん』

「そんなことないよ」

『いや声で分かるから。すぐ分かる』

「キモ。エスパーじゃん」

『いや普通に分かるって』

「え〜面倒くさ」

『面倒くさって何だよ』

 バレてしまった。何で分かるんだよ、そりゃ分かるよなぁ。毎日電話してるんだもの。自分では分からないような声の震えも、トーンの差異も、この男には分かってしまう。もう、バレないようにしていたのになんで分かるかな。面倒くさすぎる。

『今どこいんの』

「え、何」

『家じゃないでしょ』

「え何で分かるの、私何も言ってないのに」

『風の音聞こえる』

「うーわ怖」

『いやこれくらい誰でも分かるから』

 ついには外にいることもバレてしまった。本当につくづく嫌になる。どうして分かるの。分かるよなぁ。だってもうずっと一緒にいるもの。

『どこいるの』

……教えない」

『なんで、教えてよ』

「教えない」

 それだけ言い残して電話を切ろうとした時、カンカンとけたたましい踏切の音と共にフェンスを挟んだすぐ横を特急電車が通り過ぎていった。教えない、と言った直後にこれか。はぁ、とため息をつくと向こうでくっくっと笑いを噛み殺す声が聞こえてきた。

『分かった』

「マジ最悪」

『そこから動かないでよ』

……うん」

 じゃあもう切るねバイバイ。早口にそう言って電話を切った。ふうと一息ついて、LINEでメッセージを送信した。

「モバイルバッテリー持ってきて」


 踏切近くの公園の端にあるブランコは新しくペンキが塗り替えられていた。この前ここに来た時は塗装があちこち剥げていたのに、と悲しくなってしまった。あの、児童遊具には似つかわしくない哀愁が好きだった。踏切前の公園。私と彼の帰り道、「バイバイ」と手を振る場所だ。この公園を分岐点にして、私たちはそれぞれの家路へと就く。

 スマホが震えた。ロック画面に表示された「もう着く」の文字。スマホ越しに、向こうから顔をくしゃくしゃに歪ませてこちらに走ってくるひとりの男が見えた。別に走んなくてもいいのに。彼は私の姿をその目に捉えると、かくれんぼで仲良しの子を見つけたオニの子の様な、「ぱぁっ」だなんてオノマトペが似合う顔をしてみせた。なにお前、私を見つけたのがそんなに嬉しいの。

「着いた!!はぁ……はぁ……

 ついに公園に辿り着いた彼は肩で荒く息をしている。だいぶ長い距離を走ってきたようだ。

「おつかれ、家から走ってきたの?わざわざ?」

「だって、女の子一人で夜出歩くのって怖いでしょ」

「大丈夫でしょ、こんな閑静な住宅街で」

「ううん、俺としては大丈夫じゃないから」

「優しいじゃん」

「まぁね」

 ぶぶぶ、と蟋蟀が飛ぶ音がした。夏はもう過ぎて久しいのに、街灯に群がる羽虫はどうしてだか一向に減る気配がない。 


「どうしたの」


 頭にぽん、とそこそこ大きくて、まあまあ重い何かが乗った。手のひら。頭に手を乗せたままこちらの顔を心配そうに覗き込む顔。そしてどうしたの、その5文字に詰まってる溢れんばかりの優しさが、それら全てが暖かかった。たったパーカー1枚で外に出たことを悔やんだ。涼しいよりもちょこっと寒い、その温度にこいつの存在は暖かすぎて、にわかにぶわりと鳥肌が立った。

なんで、来たの」

 なんで来たの、なんて聞かなくても分かる。答えなくていいよ、分かってるからいいよ別に。ただ、言いたいだけ。悪態をつきたいだけだから。無視していいから。慌てて視線を地面にだけ向けて、またぐうと唇を噛んだ。ダメだ、また泣きそう。目頭が熱く、鼻の奥がツンとなるのを必死で堪える。

「好きだから」

 何でもないように、そいつは言った。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、あくまでも素っ気なく「カッコつけずに自然に言いましたよ」とでも言いたげに。そうよね、来る理由なんて「好きだから」ひとつで十分よ。分かっていたのに、ぽろん、と涙が一粒溢れたからもうダメだった。ぽろ、ぽろ、ダムが決壊してしまったように、とめどなく涙が溢れてしまう。こういう時の私は泣き虫になってしまうから嫌いだ。

「好きだから、来たよ」

 そう一言呟いて、彼は私を抱きしめた。さっきやんわりと感じた暖かさが全身を包む。

 うっ、う、うう。嗚咽が小さく洩れては、触れた彼の身体の中に消えていく。ぎゅ、と私の身体を抱きしめる力が強くなった。右耳から聞こえる心の臓が動く音が、ドクンドクンと脳に響く。暖かな腕の中、泣き疲れて上手く働かない意識のうちで、「この男から生まれてこれたら」なんて馬鹿みたいなことを考えていた。



***



「ふうん」

 公園を出て当てもなく歩き始めた。いつもは歩かない、彼の道へ続く通学路。私は歩きながらひとしきり母親への愚痴を吐き続けて、その最後の一つまで終わってからひと息つくと、彼はそれだけ呟いた。ふうん。

「ふうんて。もっと他にないの?」

「だって適当なことも言えないでしょ」

「まぁそりゃそうだけど」

 彼はぶらんぶらんと手を大きく振りながら白線の上だけを辿って、お腹すいたなぁ、とわざとらしく呟いた。

「どこか行く?」

「まっすぐ行ったらローソンあるよ」

「あぁ、ローソン」

「俺カップヌードルの新しいやつが食べたい」

「何それ」

「トムヤンクン味」

「へぇ」

 おっとっと。バランスを取りながら白線の上を歩く彼が少年のようで、私もそうっとその背後で白い綱渡りを始めた。白い線から足を踏み外すと、一体どうなってしまうのだろう。暗い黒い、深淵の中へ落ちて、もう二度ともどってこれなかったりして。

「ねぇ、これ白い線踏み外したらどうなるの」

「ん?おちる」

「落ちたらどうなるの」

「分かんない」

 そう言うと彼はあっけなくスタスタと白い線から下りて、道路の真ん中を歩き始めた。ちょっと待ってよ。こんなにもあっけない最後が来るなんて。私のほのかなワクワクを返して欲しい。

「落ちたじゃん」

「うん」

「どうすんの」

「えーどうすんのって、」

 白い線の上を一歩、二歩。そろりそろりとゆっくり歩みを進めていた私の腕が、ふとぐいと闇にひっぱられた。あ、おちる。


「一緒に、おちればいいじゃん」


 割と広い道路の真ん中では、歩道の端を照らす街灯の光は薄暗くしか照らしてくれなくて、本当に二人で闇の中におちてしまったようだった。

「死んじゃった?私」

 冗談半分でそんなことを聞いてみる。ふざけて覗き込んだ彼の顔が想像以上に真剣で、ちょっと驚いてしまった。

「うん」

 え、死んだんだ私。嘘じゃん、と呟いた声色が思っていたよりも深刻になってしまって慌てて口を塞いだ。いや違うの、今のはマジで捉えた訳じゃなくて、わざとじゃなくて。彼は慌てる私を見てアハハと声を上げて笑った。ちょっとやめなよ夜だよ。近所迷惑だって。まだ笑っている。つられて私も笑った。何が面白いのかあんまり分からないけれど、何だか可笑しかった。


「あとさ、おちちゃったらもう上を見るしかないじゃん」

...そっか」

「ほら見て、めっちゃ星綺麗」

「ほんとだ」

「見てなかったでしょう」

「見たし。お前が来る前に」

「うっそだぁ」

「見てたもんちゃんと」

「ごめんごめん拗ねないで」

 ほらペガスス座だよ。そう言って彼は丁度私たちの真上を指差した。どれとどれを繋げたらペガスス座になるの。そう問うと彼は分かんないの?とだけ言って悪戯っぽく笑った。きっとこいつも分かっていないのだろう。

 いつもは普通の一般的な男子高校生らしく振る舞っているのに、どうして今の彼はこんなにも抽象的なことばかり言うのだろう。私を元気づけようとしているのか、それともなぁんにも考えていないのか。分からない。つかみ所がない。夜がコイツを変えたのか。

...分からん」

「まだ分かんない?あるじゃんペガスス座」

「いやもう分かんない。諦めます私は」

「残念」

「うん...ローソン行かなくていいの」

「ん、そうだったね」

 また道路の真ん中を歩き出す。二人で手を繋いで道の真ん中を割り進めば、まるで知らない街まで来てしまったような錯覚を覚えた。闇におちて、その先はどうあるのだろう。でもここが闇だとしたら、闇におちるのも悪くないななんて、そんなことをぼんやり考えた。死んじゃうのは嫌だけど。


「俺、お前は悪くないと思うよ。絶対に」

 手を握る強さがぎゅっと強くなった。何だよお前、分かりやすいことも言えるんじゃん。ふふふと笑い強く手を握り返すと、からかってるなと睨まれた。ええそうですとも。

「そんなこと分かってるよ」

 そう。そんなこと分かってる。だけど、それは私が一番欲しかった言葉で。たったひとことで済む話を、彼なりに考えて考えて伝えようとしていたのかと考えると、ああいとしい、そう思えるのだ。

「分かってたかぁ」

 彼はそう言うとぐしゃぐしゃと頭を乱暴に掻いた。ぼんやり道路の向こうが白い光に照らされている。ローソン、と彼が小さく呟いた。お腹が減っているはずなのに何だか寂しそうなその声にまた小さく笑ってしまった。

 私たちだけの闇が、もうすぐ終わる。



***



 翌朝、私は自分の部屋の古いベッドの上で目を覚ました。どうやって帰ったのかは覚えていないけれど、起き抜けの口の中はじゅわりとしょっぱかった。コショウの味も、少しした。