『いただきますの哲学』 ―「奪う」宿命から「与える」愛へ―


第一章:空っぽの器、奪うという宿命


みなさまはじめまして。

私、かどやと申します。


今回は食事にまつわる私の少し変わった考え方をご紹介し、皆様の知恵の糧になりたいと思います。



私は、​人は「空っぽ」で生まれてくると思っています。



少し強く聞こえるかもしれません。



けれどこれは、人間を否定するための考えではなく、この世界の仕組みそのものを、ただ静かに、ごまかさずに見つめたときに見えてくる、ひとつの「はじまりの姿」だと思うのです。




私たちは、生きるためには、どうしても他の命をいただかなければなりません。




植物であれ、動物であれ、自分以外の存在を取り込むことでしか、未来を生きることはできません。




つまり、生きるということは、残酷だけど「奪うこと」でしか始まらないと、私は思うのです。



そしてこれは、この世に生まれた以上、避けることのできない、生きていくための「前提条件」なんだと思います。



これはつまり、前世で悪いことをしたとか、先祖の業が降りかかったとか、誰かに呪いをかけられたとか、そういうこととは特に関係がなく、



すべての生物が、この悲しいけれど、だからこそ尊い「仕組み」の中に生きているのだと思います。



なので、まずは「食事」を前に、それを食べるか。

私は自分に「自問自答」をしています。



みなさんも少し立ち止まってみて、同じように想像をしてみませんか?




​私は「生きたい」かもしれない。



 でも、私が生きるためには、誰かの命を食べないといけない。



 ​ここで私は、ひとつ大きな**「覚悟」**を決めます。



 「私は、目の前のこの子の命を奪ってでも、生きることを選ぶ」という覚悟です。



誰のせいでもなく、私が選んだこと。
だったら、その奪った命に「君を食べて良かった」と思ってもらえる生き方をしなきゃいけない。



 ​だからこそ、私は自分と「比べてみる」のです。 




でも覚悟を決めたからといって、何も深刻な顔で食べるわけではありません。



私は心の中で、こんな風に親しみを込めて問いかけています。



『ほうれん草ちゃん、君は動くことなく、あんなにも雨風に耐えて、虫さんにも雑草にも負けず、ここまで大きくなったんだね』



『果たして私は君を食べるに値するほど、我慢強いのだろうか⋯』




『さんまちゃん、君は小さいときから大勢の天敵に囲まれて生きてきたんだろうね。動くことを躊躇していたらきっとここまでは大きくなれなかっただろうね』



『果たして私は、普段からそれほど必死に動けているのだろうか⋯』




こうイメージしてみると、

自分が情けなくて、食べられなくなるときももちろんあります⋯




しかし、そこを考えて生きるということをしてから、私には少しずつ「変化」があったのです。



それは、
これまでは散歩中にゴミを見つけても、人に見られていたら恥ずかしいので、あとで拾うとスルーしていたものが、


植物が雨に耐えているのとイメージが重なって、『拾ってみよう』となったり、



駅で困っている人がいたら、魚のように動いてみようと自ら声をかけてみたり、



そういう良いことをする「勇気」が湧いてきたのです。


そして、食べて私になったほうれん草ちゃんやさんまちゃんに言うのです。


『君たちのおかげで私は良いことが出来たよ、ありがとう!これからも君たちの分まで頑張ってみるから勇気を貸してね!』と、『君たちのおかげで私は良いことが出来たよ、ありがとう!これからも君たちの分まで頑張ってみるから勇気を貸してね!』と、



だから、私はこの「勇気」というバフが、大切なんだと思うのです。



心の弱さは、きっとみんなも同じで、このバフがあるかないかの総量が、弱い心を支える「つっかえ棒」になっている人が強くみえるだけなのではないかと思うのです。



そして、この勇気を出した日のご飯は、『今日は頑張ったから食べていいだろう』と、迷いなく頬張ることが出来てすごく美味しい!



本来食事とは、こういう自分をふるいにかけるための『ゲームのBOSSキャラ』みたいな役割なのかもしれません笑



だからこそ頑張ったときの食事が圧倒的なステータスで戦うBOSS戦のように、癒しになるのかなって思いました。




そうやって、空っぽの自分の心と腹を、勇気と食材によって満腹にするという行為は、



誰かに依存して、自分を満たしてもらおうとするのではなく、自分の人生を、自分で支えられるようになること。




つまり、​これが人としての「自立」の第一歩で、ただ奪うだけだった存在から、一歩抜け出すための大切な『生物の始まり』なのかもしれません。



​第二章:自分を満たすという、土台づくり



​心が枯れていると、人はどうしても他人に求めてしまいます。




​期待し、依存し、思い通りにならなければ苦しむ。




それは決して悪いことではありません。



ただ、まだ「準備の途中」なだけです。



けれど、そこに留まり続ける限り、私たちは「奪う」という関係性から抜け出すことはできません。



​だから、まず自分を満たす。



自分の幸せを、自分の中で完結させていく。



それが、人としての豊かな「土台」になっていきます。




​では、その土台の上で、私たちはどう生きるのか。



​ここで一度、立ち止まって考えてみたいのです。



​食事の前。



目の前にあるその食べ物は、もともと生きていた命です。




その物語を、私たちはこれから自分の中に取り込もうとしています。




​このとき、問いかけてみるのです。



​「自分は、この命を受け取るに値する生き方をしているだろうか」




​立派である必要はありません。完璧である必要もありません。



​ただ、「この命を、何に変えていこうか」


それを、自分なりに考えることが大切なのだと思うのです。




​第三章:「いただきます」という深い祈り



​食べるという行為は、ただの栄養補給ではありません。



別の命を、自分が引き受けるという儀式です。



​その自覚が生まれたとき、「いただきます」という言葉の重みは、深い祈りのように変わっていきます。




​人は、奪うことで生きています。



​けれど、その奪った命をどう使うかは、自由に選ぶことができます。




​自分のためだけに使い続けることもできるし、



誰かの笑顔や、温かな時間のために使うこともできる。



​自分が満たされ、依存から少し自由になったとき、人は初めて、本当の意味で「与える」という選択ができるようになります。




​ここで、はじめて変化が起こります。



​奪うだけだった行為が、誰かのために使われることで、意味を変える。



そのエネルギーが、誰かの光となる。



​私は、これを「善へと転じていく」と呼びたいのです。




​第四章:人は悪から始まる、だからこそ



​人は、最初から完璧な善ではいられない。



​だからこそ、



​奪って生きる自分を認め、



まずは自分を精一杯満たし、



そのうえで、この命をどう世界に返していくかを考える。



​それが、人としての成長であり、この世界への恩返しなのだと思います。



そして、その恩返しが集まって、みんなの平和になるんだと信じています。



全ての生物や無機物の平和に繋がることを夢見ています。



​人は、悪から始まる。それは、私たちが「同じ痛みと不完全さを持った、地続きの存在だ」ということの証明です。




​この「宿命」を共有しているからこそ、私は、過ちを犯した誰かを、自分とは違う世界の住人として切り捨てたくないのです。



​犯罪をしてしまった人のことを、一線を引いて「別人」と決めるのではなく、「もしかしたら、自分だったかもしれない」という心の余白を持つこと。



​正しさで誰かを裁くことよりも、奪い合う宿命の中で、なお「愛する」ことを選ぶ。



犯罪をしない人が、犯罪をしてしまった人さえも、同じ人間として愛せる世界。




​それが、私が夢見る平和の姿です。




​命をいただいた分だけ、何かを灯して生きる。




最初から善人ではいられない私たちだからこそ、その一歩一歩の重みが、人生を、そして世界を少しずつ光の方へ変えていくのだと信じています。




​「いただきます」




​その一言の中に、


私たちの生きる道の、すべてが込められています。


​第五章:半径一キロメートルの「命」と繋がる



​さて、これまでお話ししてきた「自立」や「祈り」を、もう少しだけ具体的な日々の暮らしに落とし込んでみたいと思います。



​私は、できるだけ自分の住んでいる場所の近くで育ったものを食べるようにしています。


いわゆる「地産地消」ですが、私にとってはもっと切実な**「命の同調」**のような感覚です。



​同じ雨を浴び、同じ潮風に吹かれて育った野菜や魚。


それらは、私と同じ環境を生き抜いてきた「同士」です。


​その命をいただくことは、自分という存在を、この土地の循環の中に深く根付かせる儀式でもあります。


もし、食べるものがすべて遠くの知らない国から運ばれてきたものばかりだとしたら、私たちの体は、自分が今立っている地面と切り離されてしまいます。



​「自分の命の源を、他人に握らせないこと」



​これが、自給自足という生き方の、最も個人的で大切な始まりです。自分で自分を養えるという実感が、本当の意味での「心の平和」を連れてきてくれるのです。




​第六章:奪うくらいなら、誇り高く幕を引く



​この「自分で自分の命を支える」という意識を、少し広げて考えてみてください。



それが集まったものが、「国」という形になります。



​私はこれまで、「人は奪い合う宿命(悪)から始まる存在だ」とお伝えしてきました。個人レベルでは、その不完全さを認めることで、他者への慈悲や愛が生まれるからです。



​けれど、その個人が集まった「国家」という形になったとき、私の哲学はひとつ、大きな**「反転」**を見せます。



​もし、私たちの国が飢え、他国を侵略し、誰かの命を無理やり奪わなければ生きていけない状況になったとしたら。誰かを傷つけてまで、自分たちだけが生き残る道を選ぶべきでしょうか。



​……私は、そうは思いません。



他国の人の命を蹂躙してまで守る「平和」など、この世のどこにも存在しないからです。



​国家とは、個人の「奪い合う宿命」を、知恵と協力によって「分かち合う喜び」に変えるための、最後の砦であるべきだと私は考えます。



​もし、誰かを傷つけなければ存続できないのだとしたら、そのシステムを無理に維持するのではなく、「誰の手も汚さず、誇りを持ってその役目を終えること」。



それこそが、究極の誠実さであり、世界平和への最後の貢献ではないかと思うのです。




第七章:大和心と武士道が教える「平和の形」



​私がここまでお話ししてきた「関係性」や「自立」の根底には、日本人が古来から大切にしてきた二つの精神が流れています。



​ひとつは、**「大和心(やまとごころ)」**です。



それは、「自分も、目の前の人も、道端の石も、みんな神様である」という感覚。



「お天道様が見ている」という言葉があるように、誰も見ていなくても誠実でいられるのは、自分の中に神様がいることを知っているからです。



この大和心があれば、誰かを「敵」として切り捨てることはできなくなります。



だって、相手も自分と同じ、尊い神様の一人なのですから。



​そしてもうひとつは、**「武士道」**です。



私の考える武士道とは、単に戦う技術ではありません。



**「自分のやることが世界平和に繋がると信じるならば、たとえ周りから批判されても、たった一人でもやり遂げる」**という、鋼のような信念のことです。



​「世界平和を目指す」なんて言うと、笑われるかもしれません。



けれど、武士ならば、大和心を持つ日本人ならば、その青臭い理想を掲げて生きることこそが、本当の「粋(いき)」というものではないでしょうか。



​エピローグ:誇り高く、いただきます



「いただきます」という言葉を口にするとき、私たちは武士であり、神様の1人に戻ります。



​奪う宿命を背負いながら、それでも世界を愛し、平和のためにこの命を使い切る。



誰の手も汚さず、自分