10月16日(木) MOVIX橋本
1回目を観たのが10月3日、それから原作「宝島」を読み、その原作のブログを書いたのが10月16日(木)で、その日のうちに、2回目の鑑賞。
今回は、原作を読んだ後なので、シーン毎に、あああの場面のことだな、登場人物はこういう人だな、と理解が進んで、泣くとかはせず、感動も前回ほどではなく、淡々と鑑賞できた。
相変わらず観客は少なく、10名もいなかった。
この映画は、原作と同様、戦後オキナワの歴史を知る上では、素晴らしい作品で、推奨にあたいする。観た方がよろしい。
しかし、やはり瀬長亀次郎が登場しないところに、大きな欠陥があるし、映画の意味を少なくしている。
どうして、監督や脚本家は、瀬長亀次郎を排除したのか。
それでは、戦後オキナワ史を知ることはできまいに。
もう一つ、この映画を難しくしていることに、ウチナーグチがある。
ヤマトンチューには聞き取りにくいのだ。人名にしてもそう。オンだ、グスクだ、ヤマコだ、レイだ、ジョーだ、ヤマトには素直に理解ができない、人物特定ができない。
人名は、原作通りだから仕方ない。
その他のセリフでも、ウチナーグチのあのアクセントで喋られても、素直には理解ができないのです。
映画では、ウチナーグチと、ヤマトグチと、英語が喋られる。
その言葉によって、わかる人には、出身と考え方がわかるのだ。どっちの立場?
例えば、ヤマコが小学校教師になって、児童に詩を教えるのだけど、その教える詩は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」であって、勿論ヤマトグチ、授業も、板書もヤマトグチ。これも、ヤマトの押しつけになってやしないか。そういう教育だったことが、ウチナンチューにはさっとわかるけど、ヤマトンチュには、意図が摘みきれない。
パンフには、「映画に登場する沖縄ことば(一部)」が掲載されているが、鑑賞しているヤマトンチューには、即理解できるコトバではない。それが、銃弾のように飛び交うと、今何のこと?となってしまう。
ウチナーグチは、結構早口だからさあ。
パンフを熟読してから、あるいは原作を読んでから映画を観る観客は少なかろう。
原作本では、例えば”日本軍”という表記の横に”ヤマトウ”と振ってある。
”親分”には”ターリー”とも。
この映画で英語が喋られるシーンでは、日本語(ヤマトグチ)訳が画面下に流れる。
これと同じ事を、ウチナーグチの台詞・会話の時に、ヤマトグチで翻訳を出すべきではなかったか。
だから、ヤマトの観客には難しく感じられる。
結局、原作から瀬長亀次郎を省き、ウチナーグチの理解困難を放置したところに問題がある。
結局、ヤマトの作った、ヤマトの視点での映画にしかならなかった。
映画の作成者が、自らは支配者であるヤマトンチューだという事を、無自覚的せよ、理解していないのだ。
こういう観点が抜けていると、今の、普天間基地移設問題、辺野古基地新設問題に至るまで、移設賛成・反対を含めて、現在のオキナワの置かれている矛盾と相克に理解が及ばないのだ。
その象徴が、瀬長亀次郎の排除であろう。
という訳で、前回のブログでも紹介した、佐古忠彦著「瀬長亀次郎の生涯」(講談社)を推薦する。
亀次郎のプライベートな歴史も書かれているが、戦後オキナワの歴史的事実も、ほぼもれなく記載されている。
教科書ではない。一人の傑出した政治家の行動を追うことによって、戦後オキナワの歴史が見えてくる。
約1日で読了できる。
是非是非、映画『宝島』と共に、書籍「瀬長亀次郎の生涯」も読んで欲しい。
10月初めから本日まで、自称高等遊民のブログとしては異例の政治関連でした。
怒濤の政治関連も、これで一区切りにしましょう。
古典芸能やクラシックの世界に戻ります。それが、本来の自称高等遊民。かな。