10月5日

 

この日は、レンタカーを借りて、屋島と志度寺。

謡蹟めぐり。

 

ホテルの朝食を食べるが、讃岐うどんは付いてこない。

 

まず屋島の展望台に行って、屋島寺など。屋島合戦は、海の方だったはずなので、山上のこちらには影響ないはず、平家方もすぐに海に逃げたから、山には登っていないはずなのに、合戦の刀の血をあらったという”血の池”があったりして、歴史ある屋島寺も、源平合戦に奪われそう。

 

屋島寺は、84番札所。巡礼の方も居る。

 

降りてきて、次々に古戦場などの跡地めぐり。

この辺り、現在は平地だけど、海が続いていて、貝殻等の海岸地域だった。

写真を撮りまくる。どの順に寄ったか下記の順。以下、他に観光客などだれも居ない。

 

佐藤嗣信の墓・・義経を守ろうとして能登の守平教経に討たれた、義経の家来・佐藤嗣信の墓。

菊王丸の墓・・平教経の郎党が、佐藤嗣信の首を取ろうとしたが、嗣信の弟に討たれる。教経が惜しんで建立した。この時代の戦いは弓矢なのです。屋島寺の“血の池”は、嘘だろう。

弓流しの跡・・義経が弓を流してしまった場所と言われるとこ。弓を惜しんだのではなくて、小柄な義経の名を惜しんだとか。

駒立岩・・那須与一が舟の扇の的を討ったとき、駒を海中に進めた上、駒を置いて足場を固めたという岩。

扇の的・・この辺りの舟の上に平家方の扇が有ったとか無かったとか。妙な絵の看板が有るだけ。駒立岩から案外近い。そんなに弓矢が飛ぶはずがない。

祈り岩・・那須与市が、平家の舟上の扇を射ろと命じられた後、祈った岩。「南無八幡大菩薩、わけても生国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真ん中を射させ給え」と祈ったとかいう岩。ここから駒立岩に向かったのか。全部平家物語。この3箇所は極間近。

景清の錣引き・・伝説を伝える看板のみ。ここを眺めていたときに、81歳という老人が現れて少しお話。明治大学に進学したという。この地域の有名人なのでしょう。こういう楽しみもある。

 

車で移動して志度寺。

向かう途中の交差点名が「房前」とある。普通ならば”ふさまえ”とか読むんだろうが、ローマ字の表記にはキチンと”フサザキ”と書いてあって、うれしくなる。

謡曲『海人』を知らないと、こうは読めないのです。

藤原不比等の子、房前。淡海公とも呼ばれる。不比等がなくした玉を取り戻しに来たときに、地元の海人女人と関係を持ち、子を宿す。再びこの地を訪れたときに、その母親が、鎌を持って海中に入り、玉を取り返してくる。胸の下を切り開いてそこに隠して海上にあがってくる。取り戻せば、産んだ子を大臣にするという約束。そして成功したので房前となる。

謡曲『海人』、そのクライマックスの「玉之段」。

 

88ヶ所霊場の86番目。霊場巡りの真面目な方々の中で、ワタクシは、謡曲『海人』の謡蹟探し。

蚊に襲われながら、古跡海人の墓、柵の向こうにある「海人」の墓石。謡曲「海人」と海人の墓、という看板。

霊場が主なので、仕方が無いのです。

 

高松への帰途で、讃岐うどん。自分で温めるセルフタイプの、本格的なお店。土曜日ということもあって、地元の子連れ家族がいっぱい。

美味しかった。今回の旅で、何度讃岐うどんを食べるかと思っていたが、結局満足的にはこの一回だけ。

実は、2日目に、金刀比羅宮参道でうどんを食べたが、ん?という感じで、これは食べなかったことにしようと。頭の中では回数から除去。これは讃岐うどんではない、手打ちうどんの名家のように宣伝があったが、嘘。まったくダメでした。

 

レンタカーを返して、同じルートで帰える。

なんとな~んと、行きに偶然一緒になった紀彩の会の仲間と、新幹線岡山駅構内ホームで再会。

電車は違ったが、こんな偶然有るんだ、と。

 

新横浜で、アイスバインを食べて、帰宅。

疲れたけど、心地よい。

楽しい3日間でした。