3月17日(日) 梅若能楽学院会館

能 『草子洗』・替装束

 シテ(小野小町)角当直隆 ツレ(紀貫之)山中迓晶 子方(帝)角当美織

 ツレ(壬生忠岑)山崎友正 (河内躬恒)小田切亮磨 (官女)2人

 ワキ(大友黒主)宝生常三 アイ(黒主の供人)河野佑紀

 笛:槻宅聡 小鼓:幸正昭 大鼓:柿原光博

 地頭:梅若紀彰

 面:シテ「若女」

狂言 『酢薑』 (和泉流 野村万蔵家)

 シテ(堺の酢売り)野村万蔵 アド(津の薑売り)石井康太

仕舞 『氷室』 山村庸子

   『小塩』 鈴木矜子

   『須磨源氏』 野崎美歩

   『国栖』 三吉徹子

(休憩)

能 『野守』・国頭・天地之声

 シテ(野守翁 鬼神)梅若長左衛門 ワキ(山伏)舘田善博 アイ(里人)野村拳之介

 笛:栗林祐輔 小鼓:観世新九郎 大鼓:柿原孝則 太鼓:小寺真佐人

 地頭:角当行雄

 面:前シテ「朝倉尉」かな、後シテ「小べし見」かな。

 

令和5年シーズンの最終定式能。何枚かチケットを持っている方が、その消化や、知人を誘っての参加らしく、かなりの見所人数で、割と混雑。

そのためか、あまりお能に馴染みが少ない方も見えていて、開始前のおしゃべりや、拍手のタイミングに違和感。

 

能『草子洗』、初見。「草子洗小町」とも称されるように、小町モノ全5曲の一。

小町モノとは、「関寺小町」「卒塔婆小町」「通小町」「鸚鵡小町」と、この「草子洗小町」。

帝の御前にした歌合に、小野小町と大伴黒主が対戦することになり、黒主は密かに前夜小町の和歌を盗み聞きして、万葉集に書き込み、対戦時に、それは「古歌」だと主張する、が、それを洗ってみると文字が流れてしまい、黒主の偽造であることが露見し、黒主は自害せんとするが、小町が、歌の道を説いて説得し、帝もそれを受け入れて、和歌の徳を讃える。

お祝いの中ノ舞。

 

先日拝見した『志賀』と違って、黒主はワルモノになっていて、古今和歌集仮名序の通り、という感じ。

小町は、落剥した姿ではなくて、絶頂期の和歌読み人。これも、小町モノとしては少数。

 

歌合というのは、対戦者と題を決めて、対戦する。

この曲の中で「人丸赤人の御影を掲げ」という詞章があるのは、柿本人麻呂と山部赤人という、万葉集時代の巨頭2人の肖像画でも掲げてあるのだろう。聖徳太子の名も登場するので、和歌の道、和歌の徳が前提になっている。

こういう「和歌の友」が前提となって、黒主は許される。

なんで?だけど、悪気はなかったってこと?

ま、物語だから。

 

歌合に参加するのは、古今和歌集の選者トップの紀貫之、壬生忠岑、河内躬恒であり、まさしく、古今和歌集の世界。

仮名序で取り上げられている六歌仙の、小町と黒主が対戦する。

そういう和歌、古今和歌集の知識が当時は皆さんあったのだね。

 

地頭が、元のチラシでは梅若楼雪先生であったが、もう無理なんで、紀彰先生に交替。

交替の理由は説明無し。みんな解っている。もう謡も無理なのでしょう。

紀彰先生、病み上がりのハズだけど、いつもの通り素晴らしい謡声で、全体をリード。完璧。舞台が締まる。

 

狂言「酢薑」も所見。

薑とは、はじかみと読むが、生姜とか山椒のことを指すらしく、「辛い」モノらしい。

その薑売りと、酢売りの遣り取りの面白さ。系図の自慢、その中で、「カラ」というコトバと「ス」というコトバを強調し合う。

秀句合戦になるが、「カラ」と「ス」のコトバで始まる洒落の争い。

最後は仲良く。

この「カラ」と「ス」が聞き取れないと、何の面白みもない。聞き取れれば面白い。梅若会では、極限の解説がまったく無いからね。

 

仕舞女流4曲。参考にはなるが、いつも紀彰先生のお手本を観ているので、感激はしない。ここまで休憩なしで疲労してきているし、ここでの女流仕舞4曲は、正直辛い。

 

最後は能『野守』。3回目だが、初めて意味が解る。

「野守」は風情があったり、歴史のある野を守る役人。「野守の鏡」というのは、野にある鏡のような池の意味と、そこに棲む鬼神が持つ鏡のこと。

前場では池の話、後場は鏡のこと。鏡とは魔力を持つもの。写す、ということ。

 

後場の、シテが鏡を手にしての舞が勇壮で楽しい曲。

後シテの面は、なかなかのモノでした。

シテの長左衛門先生、前場の出からやや身体がブレていて、後場は大丈夫かしらと思っていたら、”舞働”をパスしたようですよね。

たしかにあの鏡は重量と持ち方からして、困難な舞ではあるけど、そこが売りの曲のハズでしたね。

残念です。

5月の国立能楽堂定例公演で、『野守』・白頭が、大槻文蔵先生のシテで上演される。大学のクラス会と重なってしまっているけど、どっちに行くかな。比較して観たい気もする。

 

また長いブログになってしまった。