昨年末の御稽古会で、『松風』の一部を連吟し、大分良い調子になってきていた。
最後のキリの部分のお稽古がまだ済んでいなかったので、1月の一回目のお稽古でそこを済ますことにして、師匠ご夫婦を囲む新年会の席上で、さて、次は何をお稽古しようか、と。
決まったのが『高砂』なんです。
まあ、誰でも知っている曲といえば、『高砂』。そう、結婚式で謡われることが(昔は)当たり前だった「高砂や この裏舟に帆をあげて」の『高砂』。ここは、中入り後のワキの「待謡」なんですが。
また、よくお能の最後、付き祝言として謡われるのが「千秋楽は民を撫で」の千秋楽。『高砂』のキリです。
謡を習った方は、口ずさむことが出来る。
実は、結婚式でも能楽師としては謡ったりする「四海波」。「四海波静にて 国も治まる時つ風」。こっちの方がお目出たい。
仕舞の曲としても、「げにさまざまの 舞姫の 声も澄むなり 住の江の」からキリの最後までは、初心者用というか、皆様お稽古される。
初心者が習うのではないかというこの曲、部分的に知っているつもりで、部分的には謡えたりするので、まだキチンと通してお稽古していなかったんです。
そこで『高砂』。
お能としても拝見したことはあるから、ストーリーはよく知っているつもりだったが、まずは、謡本を読み込み、詞章を理解しようと。
すると、何だか、難解。ワキの登場の真ノ次第や、道行はまあ解るが、シテツレの登場の真ノ一声から難しい。
サシの「誰をかも 知る人にせん 高砂の 松も昔の 友ならで」は、古今和歌集にある歌で、雑の上編にあるとか。また百人一首に34番として取り上げられているとか。
「所は高砂の 尾上の松も年古りて 老の波もより来るや 木の下蔭の 落ち葉かく なるまで命ながらえて」となると、要するに老境が浮かび出てきていて、身につまされる。
それに続く「猶いつまでか 生きの松」とくると、まったく、いつまで生きるんだろうか、ということ。
この「生きの松」というのは、「生の松原」という場所が、九州博多湾の名所であった時代があって、元寇の防塁跡があったりする。だから、「それも久しき 名所かな」という詞章に繋がる。
とともに、「生き」る、ということの含意もある。
ちょっと進むと、「高砂というは 上代の 万葉集の古(いにしえ)の儀 住吉と申すは 今この御代に住み給う 延喜の御事」とあるのは、万葉集と古今和歌集を示す。
古今和歌集は、延喜の時代(901年から923年)に編集されたモノで、万葉集と並んで延喜の御事といえば、当時の方々は、古今集のことだと解ったはず。
老境とそれを讃えつつ、和歌の徳も示しつつ、祝言とする曲なのですね。
ムムム、これは古今和歌集、新古今和歌集を勉強せねばならぬ。
これまでも、和歌の徳を示す謡やら、古今集、新古今集から引用された詞章を持つ謡やら、いっぱいあったが、理解不十分であったなあ。
高等遊民、いよいよ和歌の世界に入り込むか。
実は、漢詩の世界も興味が湧いてきている。和漢朗詠集、李白や杜甫。
能楽は、どこまで沼が深いのだろうか。