月刊『能楽タイムズ』(株式会社能楽書林発行)が、2023年2月号で休刊となった。

創刊70年を超え、総発刊数851号に及ぶ。

ワタクシは、はっきりした記憶は無いが、このブログ開設の頃から年間購読の定期読者になっていたと思う。年関税込み6,000円、一部500円。

主として、2ヶ月ほど前の能楽舞台の評論記事を読んでいた。そのくらいのタイムラグは当然であろう。

ワタクシも見た舞台の評論は、”ああ、そういうことね”、”そういう観方もあるのね”ということ。

能楽評論家、という「職業」(?)「専門家」(?)という方がいらっしゃるということも、これで知った。

能楽関係者の実践者、つまりプロの方々は、「能評」と呼ぶのだということも解ってきた。

 

今回、『能楽タイムズ』70年という題で、能評、発行者、研究者らの座談会が掲載されている。

その全部を紹介することはしない。それならば買ってちょうだいね。

 

村上堪さんという能評がいらして、なかなか辛辣な評論を行ってきていて、これまでも反発やら同感やら。時々、能楽堂でお顔を拝見する。

彼は、勿論プロの役者では無い。

謡や仕舞のお稽古をしたのだろうか、という疑問も持つが、古典芸能のあり方として特定の流派に所属し、師匠を持つということになるから、お稽古はしなかったのだろうか、とも、お稽古しなくて能楽の魅力を肌で感じることはできないだろう、とも思う。

 

彼が上記座談会中で、次のような発言を行っている

「能評に限らず演劇批評というものは、戯曲評、演出評、芸評、その三本の柱が揃わないと行けない。」

なるほど。曲そのモノの善し悪し、その曲をどのように演出するか(小書きなど)、どのように役者が演じるか、だね。

これは良くわかる。

というより、ワタクシのような能楽中毒者は、最終的に良き舞台であったかどうか、だけになってしまう。

しかも、お稽古している、非力ながら実践者は、おお、良くできたね~、などと感動してしまうかどうか。技法というか、技術力というか。

ここが、ド素人が感想を述べているだけの、このブログ記事と、能評の記事との決定的違い。

だから、そんなこと言ったって、あんたできるか、という反発と、どうしてもご贔屓筋への魅力が捨てきれず、その意味で公平な感想になるはずが無い、ということになる。

ワタクシのブログなど、それで良いのだけど。

 

例えてあげると、最終号の12月の能楽の中からの批評と感想の記事、これも今号は村上氏が担当執筆されているのだけど、12月18日の梅若会定式能、シテが梅若紀彰師の『定家』を取り上げている。

「一頭地抜けた好演を見せてくれた。」と冒頭書かれると、もううれしい。

続いて、「クセの下居姿が無類に美しい。」。梅若楼雪先生地頭の地謡を褒めあげながら、「この日本一すばらしい定家クセを一身に受け止めながら臆せず微動だにしない紀彰の胆力」「この前シテ。梅若紀彰の面目を一新する名演である。」辺りの記述、そうなんです、その通りなんです、とハタと膝を打ち、なぜだか弟子筋の鼻も高くなる。

一方、「さほど美声でもなく、呼掛の息が強靱を極めるわけでもないのだけれど・・」と書かれると、そんなことないでしょ、紀彰先生のお声はすばらしい、毎回のお稽古でうっとりしておるわい、と文句を垂れる。

更に「後シテはまだ追及の余地がある。紀彰の欠点は謡も舞も間が単調なこと」。拍の踏み方か「腹にグッと保って待つ一ト息・半息が不足しているのだ。」と評論されると、チトこれはワタクシレベルではわからないなあ、問題ないように感じたけどなあ、と、もぐもぐ。いつもお稽古でズレまくるド素人といるから、マズいんじゃないということか、などと自虐的になったりして。

 

去年12月は、紀彰先生、ホントにお忙しかったんです。遠い曲のシテも2曲もあって。それにあの超重習いの、最奥の『定家』でしょ。

 

まあ、比較して、ワタクシの昨年12月の梅若定式能の感想ブログも読んでみてください。

ここまで、ズブズブの弟子感想と、能評の批評の違い。

 

また村上氏は、同じ記事の中で、「批評の現場は弱いもので企業論理・営業論理が介入すると、観客開拓に支障ある言説は排除されやすい。歌舞伎批評が見るも無惨に衰退したのはこれが大きな理由である。」とも記されている。

さもありなん。が、素人客は、ご贔屓筋が楽しみなんですね。

 

年内(秋頃)の復刊を目指して調整中とのこと。期待して、待ちます。