8月4日(木) 国立能楽堂

おはなし 『能を彩る面の様々』 藤波重彦(観世流シテ方)

狂言『入間川』 (和泉流 野村万作の会)

  シテ(大名)能村晶人 アド(太郎冠者)野村拳之介 小アド(入間の何某)小笠原由祠

(休憩)

能『安達ヶ原』・白頭・急進之出 (観世流 観世会)

  シテ(女 鬼女)岡久広 ワキ(阿闍梨祐慶)福王和幸 ワキツレ(同行の山伏)矢野昌平

  アイ(能力)野村万之丞

  笛:槻宅聡 小鼓:鳥山直也 大鼓:大倉慶之助 太鼓:井上敬介 地頭:武田宗和

  面:前シテ「姥」 後シテ「般若」

 

◎働く貴方の能楽公演、という企画で、午後6時30分開演。近頃では、遅いのだ。

出かける頃から雷雨。千駄ヶ谷ではかなり強い。

 

おはなしは、能面の、特に女面の一般的な話し。学者が喋るよりは、シテ方の方が、朴訥としていて良い。

 

狂言『入間川』。なかなか謎の多い曲。直近は021年6月13日、狂言堂で。その時のブログで詳しく書いたが、言葉遊びの楽しい曲か、深い心理劇か。専ら、山本東次郎著『狂言のことだま』中の曲解説の視点が、悩みの種。

さて、和泉流だけど、どうなんか、と興味深く。

道行き、大蔵流より短い。駿河国、武蔵あたりが、抜けている。馬に乗せよう→富士→入間川とだけ。まあ、それでも一般的には長い道行きだけど。東次郎先生が言うところの、勝訴して領地も広げて頂いた高揚感は、さほど強くは感じない。

シテ大名の出も、東次郎家に口伝で伝わるという、最も「気合いを入れて」「颯爽と」という出ではなかったし。

まあ、流儀やお家の違いかな。

今回も、逆さ言葉を使うという「入間様」の、言葉遊びの印象でした。

事前研究のしすぎかしら。楽しめなかった。

 

能『安達ヶ原』、『黒塚』も含めて5回目ともなると、内容も十分つかめているし、更に、事前学習で「謡曲集・上」を熟読してきたから、液晶パネルはあるけど、詞章も半分以上頭に入っている。

だからかな、一々感動をしない。ふむふむ、という感じ。

小書きの「白頭・急進之出」で、後シテの出が、早笛で、勇ましく、ということだが、確かに白頭ではあるけど、ピリッとしないし、普通。

 

お勉強の成果か。何故、作り物で、「枠桛輪」(糸車ですね)が出てくるか、出てくる必然があるか。

賤の女の日常、退屈な日常を現す、昔は六条に住む「夕顔」かもという経歴があるのに、今は落ちぶれて、ということだと思っていたけど、事前お勉強でこの辺りの詞章を読み込んでみると、「輪廻」を象徴する作り物ではないかと。

クセの地謡で「地水火風の、仮に暫くもまとわりて」、つまり、人間界に生まれてきているが、「生死に輪廻し五道六道に廻ること、ただ一心の迷いなり」「凡そ人間の、徒なることを案ずるに、人更に若きことなし、終には老いとなるものを」「かほどはかなき夢の世を、などや厭はざる、我ながら」。

ここが、前場のツボだと思うのです。だから「輪廻」、ぐるぐる廻るから、糸車のように、五道六道を巡るから、この作り物が出る必然がある。単なる、賤女の日常風景だけではない。と思うのです。

だから、茅庵のみすぼらしい家に一人わびしく住みながら、食人鬼にも、豹変する。

ワキ山伏らに宿を貸し、暖を採るために柴を取りに行く親切さ、と、食人鬼は二重人格のように交錯するが、どっちもホントであって、浮世ではどっちも仮の姿で、その輪廻転生からは逃れられない、のです。

柴を取りに行くときに、「閨を見るな」としつこく釘を刺すのは、二重人格を恥ずかしくも辛くも思っている、それがバレないように、ということ。更に、それがバレてしまうと食人鬼の人格が表面化してしまって、喰ってしまうかもしれないという、自己恐怖。

出家できてしまえば楽なのだけど、そうできない以上、この輪廻の渦からは、逃れられない。

だから、最後も成仏できずに、「失せにけり」。

 

どうですか、こういう解釈。

こんなことばかり考えていたから、お能を楽しむことは出来ず。寝なかったですけど。

帰り際に、「良かったね~」という観客の声を聴きながら、勿体ない見方なのかなあ、とも。

 

もし紀彰先生がシテであったら。前シテの枠桛輪を回すシーンも、もっと悲しみが溢れるのではないか、それに、後場の後シテの出が、きゅ~んと、ドキドキして来るのではないか、とも想像してしまった。

頭で楽しむ能か、心で楽しむ能か。

まあ、「謡曲集・上中下」は、必読文献です。

 

8月の能楽はこれだけ。8月25日(木)も期待していたけど、やはり通院日と重なってしまってダメ。