今度の仕舞のお稽古に、『井筒』キリを選んでしまった。
しかも、正確に告白すると、紀彰師に、『井筒』を教えてください、と頼んでしまったのだ。昨年末頃のこと。
紀彰先生は、内心、何を不遜な、できる訳ないだろうと思っていらっしゃたかと思うのですが、当時のワタクシは、昨年8月に亡くなった野村四郎幻雪先生の最後の舞台での『井筒』キリが忘れられず、あの頃四郎幻雪先生も、大分足腰が弱くなられていて、始まりも、終わりも「下に居」を略されていて、優雅に、楽々と舞っていらしたように見えて、しかも貫禄はあって、ああ、あのお仕舞は素晴らしい、素敵だし、そんなに激しくないから、年寄りで腰が痛いワタクシにもできるのではないかと、安易に、今から思えば、本当に安易にお願いしたのでした。
紀彰先生が、お手本を舞ってくださって録画したのが、今年の1月12日のお稽古。
このときも、まだ、「できるんじゃないの」という軽い気持ち。
1月25日のお稽古では、あまり時間がなかったので、ホンのザッとだけ、という条件で教えて頂いて、なんとまだ難しさの本質に気付かず、始まりのお扇子マジックだけが難しい、というような軽い気持ち。
あまり練習しないままに迎えた2月12日のお稽古。
惨敗。全然舞えやしない。舞うなんてもんでなくして、動けやしない。ショック・・。われながら情けなや・・。
原因は、
① 詞章を覚えていない。理解していない。
知っている曲だと軽く考えていた。在原業平と紀有常の娘の恋愛物語、井戸が重要なコンセプトになっている、というくらい。
② このキリの部分の曲趣を、まったく解っていない。
後シテは、紀有常の娘の亡霊。場所は、懐かしいが、今は朽ちた在原寺、時刻は夜中から明け方。
あの井筒は、かつて思い出があって、幼少の頃は業平と”たけくらべ”もしたのだ。もう歳を取ってしまった紀有常娘が、かつての業平の姿で、冠直衣の装束で、懐かしの井筒を覗き込んで、偲ぶ。そこの水底に見えるのは、自分ではなくして、業平の面影。
この面影が見えて、ドキッとするのです。井戸を覗く前に囃子も盛り上がって、サッと動くけど、井筒を覗き込んで、業平の面影を見て、囃子も止まって、静寂の中で、「なつかしや」となる。
しかし、懐かしのその姿は、凋んだ花のようで、色もないが、香り・雰囲気だけは残っている。その時に、夜もほのぼのと明けてきて、寺の鐘の音も聞こえてくる。じっと聞く。東の空が明けてきて、この夢も破れてしまった。夜と共に明けてしまったのだ。
ここまでお勉強して、やっと、舞えるかな、できるかな、楽しいな、と思えるようになってきた。
初心者に相応しい曲ではなかった。サシコミ、ヒラキ、左右もないのです。
ゆっくりと、しかし、序破急をかけて、優雅にしっとりと、ぶらつかず、ぐらつかずに、舞わねばならぬ。
名人のみが舞える仕舞だったのではないか。
よくまあ、紀彰先生、お許しをくださって、教えてくださると。
頑張らなくちゃ、楽しまなくちゃ、どうにか舞えるようになりたい。