岩波書店発行、月刊総合誌『世界』2022年2月号。
そこに、藤沢周と馬場あき子の対談が掲載されている。題名は「心の花は残りけるぞや」。
藤沢周が、最新作『世阿弥最後の花』を上梓したのが、2021年6月。今は、第三刷になっているらしい。その感想などは、当ブログに2021年9月に記載したが、この感想はまだまだ未完成で、著作を頂いたお能お稽古仲間としての、ちょっとした感想に過ぎない。もっと書くべき事がある、と思っていて、いまだ、それが実現できていない。
その点を、再確認・再認識させてくれたのが、本対談。
馬場あき子。1928年生まれ、御年93歳の歌人、と紹介されるが、ホントに素敵な気取らないお方で、その豊富な知識、教養、頭の回転の速さに圧倒される。
歌人ではあるが、お能の造詣も深く、能と和歌とが関連した話題では、右に出る方はいないと断言できる。
お能は、和歌とは切っても切れない関係にある。
そのような方2人の対談だから、読み逃せる訳が無い。
掲載されている『世界』は、現代では、なかなか入手しづらいというか、本屋に無造作に置いてあるというモノではないのですね。以前は、発刊されるとすぐに平積みされていて、軽く立ち読みなどしていた雑誌であったのに、三軒目にしてやっと買えた。それも、本屋さんの従業員に聞いて、1冊だけあったのを、即買い上げるという状況。
肝心の内容は、やはり、お能、世阿弥と和歌の関係性。あの著作に取り上げられている和歌は、一体、どのようにして収集したのだろうか、選択したのだろうか、などと考えていたが、当然に、作者の藤沢周さんにも和歌の素養が十分にあった。
それを上回る馬場あき子さんの知識、教養、素養。
対談にあたって、お互いに、準備はしてきているとは思うけど、基本的な素養が無ければ対談は成り立たない。テキストがある訳ではないから。
対談中の、線をひっぱた箇所だけ、抜粋する。従って、非論理的、直感的な、私的な。
<馬場>佐渡は世阿弥を鍛えたと思います。鍛えたものは、最終的には大自然だった。
<藤沢>あの佐渡の海には、無と内省の振幅を人に強いるところがある。
(私注)無と内省、こういうコトバを書けるのが作家。
<藤沢>能で、静かに動かない場面。そこにいろいろな情念がうずまき、それが外に匂えておもしろいのだと。しかし、何もしないようにしようとする自分がいるとまただめで、自意識をいかに落としていくか。禅、仏教の影響も強い。
<馬場>さすが見巧者ですね。
<馬場>世阿弥は、私利私欲で戦っている人達の血みどろな、しかもその犠牲になっている民衆を見ながら、平家物語の世界をある手本にさせたかったんだと思う。つまり平家の人々は文化を持っている。だから一人の公達が死ぬと、例えば敦盛が死ぬと、最高の青年演奏家が楽器と友に消えていく。経政は青山の琵琶と共に消え、忠度は歌と共に消えていく。戦いは文化を一つひとつ潰していった。
<藤沢>(世阿弥の)時代のものが若い人たちに響くようになってくるのは、いまの世の中が修羅というか、己の過剰な利益を求めたり、承認欲求にとら割れたときに、本当にこれは自分の人生なんだろうか、という疑いがあるからではないかと。
(私注)最高の、反戦平和、共和の心ですね。能の文化。
<馬場>翁とは、やはり自然神です。山形の黒川能の翁は白の浄衣です。民族の翁はやはり、民の暮らしの中に存在していて、大祖神の化現のように思う。
<藤沢>作中で、朔之進が着てほしいと差し出す衣を考えたとき、シンプルな越後上布になりました。白だという感じはありました。
(私注)このあたり、お二人の感性の上化が溢れていて、素敵。コトバも素敵。歌人と作家と。
もう一つ。藤沢さんが、「この本を書くにあたって、私にとって老いの問題はすごく大事だった」とお話になっていられる。老いの点は、他の文でも触れられているが、やはり、この点、ワタクシの残された感想になる。
世阿弥が佐渡に流されたのが72歳か、藤沢周さんは62歳か、ワタクシは68歳。
馬場あき子さんは92歳だけど、すごい。
昨年8月に亡くなられた人間国宝観世流シテ方の野村四郎幻雪師。84歳での他界でした。
その野村四郎師が最後の舞台で舞われた仕舞が『井筒』。今度、紀彰先生にお頼みして、仕舞『井筒』を教えて頂くことにした。