5月9日(日) 横浜能楽堂

狂言組 (大蔵流 山本東次郎家)

『人馬』

  シテ(大名)山本東次郎 アド(太郎冠者)山本則重 アド(新参の者)山本則孝

(休憩)

『名取川』

  シテ(出家)山本泰太郎 アド(名取の某)山本則秀

お話し 山本東次郎 小舞『七つになる子』

 

『人馬』、初めて。持っている狂言の本にも載っていない。

シテ大名は、遙か遠国の大名であって、召使いは太郎冠者しかいない。そんなにお金持ちではないが、プライドは高い。この物語の場所は不明だが、都への道中にある。

いくつかの狂言であるように、召使いが一人では困るから(みっともないから?)沢山あまた雇おうとアド太郎冠者に申しつける。いつものことだけど、人数は大げさに伝える。最初は3000人、多すぎると言われて500人、最後は、アド太郎冠者と合わせて2人、つまり新たな召使いは一人だと。

アド太郎冠者は、最初からそんなに雇うことはできないと心得ているが、プライドを潰さないように、5000人なんて食い扶持ができないという。ここで、「堪忍が足りない」と聞こえたけど、そうかな。広辞苑によると堪忍には経済的負担力とある。

最終的に一人と決まったので、アド太郎冠者は、上下の街道に向かう。その時の独白は、これで楽ができる、暇ができると言うことだから、召使いは一人でもできないことはないが、もう一人いればラクチン、ということ。5000人や500人なんて、まったくの大げさだと言うことは、両者の暗黙の了解。

ここまでは、他の曲でもある。今、曲名は思い出せないけどいくつか。

上下の街道で、アド新参者が登場して、会話となるが、アド太郎冠者は、舞台上手側、アド新参者は下手側。これは、アド太郎冠者が、優位にあることを示していると、東次郎さんの著作に書いてあった。アド太郎冠者は、シテ大名の代理人なのであって、シテ大名の意向を受けて、最初から一人雇うなどとは言わずに、沢山雇うが、まずお前からだ、という。シテ大名のプライドと見栄を代弁している。それが自分の自慢にもつながる。

シテ大名の館に連れて来るが、シテ大名は中央の床几に座す。その脇にアド太郎冠者。アド新参者は呼ばれるまでは橋掛かり(門の外を表す)、邸内に入ってからは下手の目付柱付近。ここでも、3人の序列と位置が解る。

シテ大名は、過を言おうとアド太郎冠者と申し合わせて、色々、ありもしない大げさなことを言って、金持ちであるとか、召使いが多いだとか、優雅な遊びをするだとか、外のアド新参者に聞こえるように大声で言う。聞こえただろうな、等とアド太郎冠者に確認などする。

アド新参者を呼び入らせるが、アド太郎冠者に、お前の才覚で、自慢せよと。威厳を示せと。完全に共犯者ではあるが、アド太郎冠者は側近中の側近、右腕という位置づけ。

呼び出されたアド新参者に、様々試す。目使いというのもあって、シテ大名が目で指し示す方向を、アド新参者が追う。つまり、先々を読んで行動せよ、できるか、という試験なのだが、アド新参者も、雇われたくて遙か遠国から出てきたのだから、一生懸命。

シテ大名はうれしくなって、見たか、利根な奴よのう、と。このリコンが、言葉としては聞き取れたけど、利根という字は思いつかず。広辞苑によると、かしこい性質のことだと。利口な奴、の聞き違いかもとも思った。観客の語彙能力だけど、真剣に見ていると、気になるから、解説でもあると良いなあ。さっきの、堪忍も。

さて、最後にシテ大名は、何か芸はできないか、聞いて参れという。アド太郎冠者が聞きに行くと、これといった芸はないと答える。それを聞くと、シテ大名はかなり激しく立腹する。東次郎さんの顔つきも変わるほど。どうしてなのかは解らない。この時代、何か一芸がないと役に立たないのか。それならそれと、初めから告知すべきだが。だいたいアド太郎冠者にも何か一芸があるのだろうか、シテ大名にもありそうもない。蹴鞠の話も嘘だろうし。とにかく、激しく立腹して、雇えないから断って参れとアド太郎冠者に命ずる。

一旦は諦めた新参者だが、芸といえば「人を馬にすることができる」と。これって芸か。でも、これを聞いたシテ大名は大喜び。やってみせろと。だが、馬にする人が必要だと。なるほど。で、シテ大名は、アド太郎冠者に、お前馬になれ、と命ずる。そんな無茶な。アド太郎冠者は泣き出すが、酷い主命でも従うのが召使いの務めだ。

馬になってしまった後は、「めこを取り立ててくくだされ」と。このめこが解らない。広辞苑によると妻子と書いてめこと読むと。これも観客には解らないと思います。まあ、意味は解った。後のことはよろしく取り計らってください、ということだな。

無茶な命令を受けて、アド太郎冠者はアド新参者に怒る。お前のせいだと。しかし、主命だからやむなし。言い置くことがある。自分が馬になった後は、新参者が召し使い筆頭(一人しかいないけど)となる、ここで、完全に地位の変更が起こってしまう。

愚痴っぽく、部屋を綺麗にしてくれ、いっぱい食べさせてくれ、馬の口取りは易しく、あまりこき使うな、酒も飲ませろ、と。馬になる前の現在の太郎冠者の地位が偲ばれるね。あまり優遇はされてこなかったのね。

さて、人を馬にする芸を披露するが、実際は、アド太郎冠者の顔に何やら塗る。頭が人、身体が馬という化け物はいるが、これは珍しい、頭が馬で身体が人か、と。急がせるが、ちょっと待ってくだされ、完成したらば跨がってください等と新参者。復讐しているんだろうね。何を塗ったのかしらと思っていたが、後で、抹茶、だと。

できたから跨がれと言われて、やってみるが、できるはずがない。このとき新参者は逃げ出していて、さてはすっぱか。アド太郎冠者と二人、捕まえろ、やるまいぞ、やるまいぞ。

 

長々とストーリーを追ってきたけど、東次郎さんの著作によると、狂言は深い心理劇だと。この『人馬』は不知の曲だったから心理を見極めようと、メモも取って、真剣に鑑賞したから。

正直疲れましたね。もっとお気楽に愉しめた方が良いか。

ともかく、『人馬』の心理劇とは何か。3人の地位の優越差がある。それが、太郎冠者と新参者間では大逆転に陥る。シテ大名は、見栄っ張りで、おおらかな面もあるが、アド太郎冠者は、最初はその偉功も受けて、威張っていたが、マサカの大逆転にあってしまい、断ることもできない。「人を馬にできる芸」という大逆転満塁ホームラン。シテ大名も、メンツ丸つぶれ。

ふ~ん。これは面白いね。

苦しいのもあるけど、心理劇を探求するのも、良いかも。少なくとも、眠くなる暇はない。

 

この曲でわからなかったコトバ。堪忍(かんにん)、利根(りこん)、妻子(めこ)。

 

『名取川』、何度目か。東次郎さんの著作「狂言のことだま」に、心理劇を示す例として『名取川』が取り上げられていて、読んだばかりだったので、こちらは、納得して鑑賞できました。流れ去り行くものへの執着だそうで。

シテ出家は、地方の田舎出の出家で、都近くの比叡山の戒壇で受戒できて、うれしくて仕方がない、田舎の人々に自慢したいのだ。帰る前に、見物する。そこで美しい稚児に出会う。こっちは田舎者。稚児は、都の貴人で、かつ、超美形。男色だろうけど、お近づきになれるだけでうれしい。自慢できる。名前がないなどと言い訳を考えて近づいて、希代坊と不肖坊と、二つも名前を貰う。貰うというけど、ちょっとつぶやいた言葉から、それを名前にしようということで、ほとんど、アイドルに夢中状態。

その名前を、忘れては大変と両袖に墨書する。書いて貰ったのではない記憶だけど、とにかく、大事な記念品。名前を貰っただけでも、浮かれるほどうれしいのに、記念品までゲット。

田舎への凱旋中に、希代坊、不肖坊と声に出しながら歩く始末。うれしいし、聞いて貰いたいほど。吹聴ですね。流行っている節に付けて、替え歌のように。ホントにワクワクなのです。

川に来て、徒渡りしようとしたが、流される。持ち物は流されなかったが、墨書したはずの希代坊、不肖坊の字が消えてしまった。川に流されたと思い込む。だから、黒菅笠で掬い取ろうとする。流れ落ちたのに、何でと思う。袖に書いて貰ったのではなくして、何か、書き物を頂いて、袖の中に入れていたのだろうか。まあ、どうでもいいか。

ところが、掬い取れず、魚ばかりかかる。それを見咎めた土地の者。川の名は名取川。宿の名は名取の宿。土地の者の名前は名取の某。全部、名を取るばかりじゃないか。この土地の者アド名取某は、長袴を履いているから、それなりの地位にあるもの。こいつが差配して、シテ出家の名前を奪い取った、と。

もうここで狂っていますね。狂人。

何やらいって、アド某を捕まえて腕を取って、攻める。返せと。困ったアド某がつぶやく言葉から、希代坊、不肖坊という名前を思い出して、解放して、去って行く。

名前を書いたものを取り戻すのではなく、思い出せれば良いのです。じゃあ、なんで川を掬ったりしていたのか。

稚児から頂いたはずの名前がなくなってしまって、もう、本当に、気も狂わんばかりに混乱ですか。

 

東次郎先生は、これを執着と捉える。執着の行く末を示す、と。

ふむふむ。そうかも知れない。よく考えると、シテ出家の行動の意味は、不明としか言えない。狂人だ。戒壇で受戒がうれしかった、美形の稚児に会えて、名前を頂いてうれしさ倍増、田舎に凱旋だ。ところが、川に嵌まったショックで忘れてしまう。有頂天からの転落で、自暴自棄。混乱の極地。

そんなんかな。

 

泰太郎さん、相変わらず橋掛かりからの入場のハコビは美しい。ほとんど一人芝居で、お疲れ様でした。

 

いつも楽しい、為になる東次郎さんのお話。ちょっとボクの理解とは違うかも知れないけど、為になります。

今回の賞美は、お話しの最後の小舞。『七つになる子』。曲名は聞き取れなかったけど、横浜能楽堂のツイッターで教えて貰った。右膝が痛いのに、あんなに拍を踏んで。舞は超一流で。しっかりと扇子は上がってぶれず。型が一々決まる。

小舞で、感動した。涙が溢れる。お能の仕舞でもここまで感動はしたことはないのに。

上手の小舞は、感動を与えるのですね。

 

また、長いブログになってしまった。ここまで3時間以上。

高等遊民だけとは言っていられないような状況か。見巧者になっていますかしら。

楽しい、笑うだけの狂言でも、良いんじゃないかとは思いますが、心理劇探求も、面白い。

これからも狂言鑑賞は続く。東次郎さんでも、5月29日(土)に、東次郎家伝十二番の結び編で『文藏』と『若菜』。6月2日(水)には、国立能楽堂定例公演で『花盗人』。これは出演者多いから、大丈夫かな。