5月3日(月・祝) 川崎市麻生市民会館大ホール
解説 馬場あき子
狂言 『萩大名』 (大蔵流 山本東次郎家)
シテ(大名)山本東次郎 アド(太郎冠者)山本則秀 アド(亭主)山本則俊
(休憩)
能 『清経』 (喜多流)
シテ(平清経)友枝昭世 ツレ(清経妻)成田成信 ワキ(粟津三郎)宝生欣哉
笛:藤田貴寬 小鼓:森澤勇治 大鼓:大倉慶之助 地頭:香川靖嗣
アフタートーク 馬場あき子 山本東次郎 友枝昭世
毎年この時期に、人間国宝の競演と題して、山本東次郎と友枝昭世という2人の人間国宝が、それぞれシテの狂言と能を演ずるという企画。川崎市文化財団の企画。
確か、去年はコロナで中止になったはず。今年初めてチケットを買う。
お目当ては、実は、人間国宝ご両方もそうであるが、馬場あき子さんの講演とトーク。馬場あき子さんこそが、真の人間国宝と賞賛すべき御方。
企画題名は、馬場あき子講演に導かれる人間国宝の競演、であるべきなのです。
その馬場あき子さんの講演。いつもの通りお着物で、立ったまま30分程度。メモは小さいものを数枚用意されていたが、チラと観る程度で、ほとんど記憶にあるのでしょう、キチンと、良く通るお声で講演される。
だいたいワタクシならば、あのような小さいメモ用紙では、読めないです。90歳を超えてかくしゃくと。先日、馬場あき子さんの著書を読ませて頂いて、ますます、素敵な方だと尊敬するばかりです。
『清経』の解説から。平家物語が好きなのですね。清経は清盛の孫で、宗家筋で、闘うことなどできない、文化人。木曽義仲に追われて都落ちして九州に一旦逃れるが、宇佐八幡宮でご宣託が思わしくないと、悲観して、殺されたくないから、入水自殺してしまう、か弱き御曹司。
好きな詞章の箇所を、朗々と詠ずる。歌人と紹介されていたけど、確かに歌人ではあるけど、それにとどまらないのですよ。能の詞章を読み解く、詠ずる能力。好きなんですねえ。名文を声を出して読む、素敵です。
『萩大名』の解説では、平安時代の大名とは何か、から入った。戦国時代とは違って、大きな名田を抱えるお金持ちで、地方では教養人ではあるけど、田舎者だから、京ではまだまだ未熟もの。
先代の東次郎さんの話をされていたが、この年代の方がそろうと、先代とかなんとか、その比較とか、になるのでしょうね。
こういう解説を聞いてしまうと、人間国宝でも演じにくくなりはしないかと余計な心配。
狂言『萩大名』。もう何度も。東次郎さんシテ大名のも、何回か。いつも通り、幕から登場して本舞台に近くなると早足になってくる。ふむふむ。東次郎さんだ、と何だか安心。
大蔵流では、訴訟の途中で、気晴らしに遊山に出かける。よくできたアド太郎冠者が良き庭の持ち主に声をかけておいたから、庭の見物。萩の季節か。
シテ大名が腰掛けて庭をめでるが、ちと的外れになってしまい、アド太郎冠者に諫められる。アド亭主に聞こえますぞ、と。聞かれたら困るのですよね。恥をかくから。アド太郎冠者はヒヤヒヤの連続。恥をかくのはシテ大名だけではなくして、紹介したアド太郎冠者もなんでしょうね。
予定された和歌一首も、忘れてしまっているから、間違えるが、そのたびにアド太郎冠者が、扇などのそぶりで準備した正解を教える。七重八重九重とこそ思いしかば十重咲きいずる・・・。
最後の句である「萩の花かな」で、アド太郎冠者は、扇子で脹ら脛をさして、鼻をさして教える。が、そこで、何もなくしてアド太郎冠者は立ち去る。ここが不思議なのです。確か、以前に見たときには、ああナンというバカな主だ、とかなんとか呆れて消え去るのだったかも知れないけど、今回は何も言わず、黙って、サッと立ち去る。どうしてかな。いよいよ、面倒見切れぬとなったのか、呆れたのか、それにしても、逃げ帰ってしまうのは何故でしょうか。
アド亭主も、シテ大名より身分は低いはずなのに、最後の句ができないと、立腹して、シテ大名を投げ飛ばす乱暴を働く。どうしてそこまでか。
シテ大名は退場にあたって、面目ない、と。
3者の身分関係と、田舎と京都の文化の差と、自意識と影の自慢。それが微妙な緊張感の中で平衡を保たれていたのが、アド太郎冠者の裏切りによって崩れ去り、本心がむき出しになってしまった、ということか。
逃げ出してしまう太郎冠者、なんとか面目を保ちたく困り果てる田舎大名、馬鹿にされたかと立腹する亭主。最後は、面目ない、で。
東次郎さんの著書を読んでいる最中で、狂言とは、心理劇だと。この『萩大名』は題材に取り上げられていないので、勝手に推測してみました。間違いではないと思います。
能『清経』は5回目。最近の4回目は2021年3月横浜能楽堂でのバリアフリー能。近いのです。
ホールでの能楽鑑賞は、あまりないが、先月にこがねい能。今回は、ホール舞台上に、能舞台を拵えてあった。短いけど橋掛かりも。屋根はないから、柱は途中の長さまで。どうしたのかな、川崎の能舞台のものを解体して持ってきたのかしら。
ホールは、舞台から客席側だけに声などが響くように設計されているが、地謡は、完全に下手側を向いて謡うので、腹に響く迫力が聞こえない。
シテやツレも、面を付けているから聞きにくいのだけど、更に、身体の向きによって、聞き取りづらくなる。
もう5回目だし、ストーリーは良く解っているから、理解はできたけど、それでも詞章が聞き取りにくいと、睡魔が襲う。
シテ清経とツレ妻との掛け合い部分は、キチンと聞き取りたいなあと。ホール能の場合は、詞章を配布して、それが読める程度の照明度が必要なのではないかな。こがねい能では、そうなっていた、と思う。川崎市文化財団、一考を。折角、人間国宝の舞台なのだから。
シテの舞は、さすがに人間国宝友枝さん、きちんと揺るぎなく、迷うことなく型を決めて美しい。ああいう風に、きちっと決めてから次の型に流れていくのが、美しいし、難しいのです。
キリの、仕舞で有名な部分、太刀を抜くときに、やや困難があった。抜こうとする前に後見が近寄ってきていたのは、何故かな。あの装束では、抜きにくかろうと言うことかな。でも、これまでは、そんなことなかったが。
アフタートークも、さすがのお三方で、『清経』の『恋之音取り』という小書きにするかどうかで話があって、あれは、相当の熟練者でないと、話の内容がわからない。
ワタクシは、2020年3月、3人の会で、恋之音取の小書きを見ている。あのときの笛方は杉信太朗だった。ブログには素晴らしかったと書いてあった。友枝さんは、あの小書きには懐疑的な意見をお持ちのようだったが、良かった記憶。
こういう、話題について行ける状態になった高等遊民。なんだか、うれしい。
コロナで極近くの東京では非常事態宣言。楽しく、鑑賞できました。