10月22日(木) 国立能楽堂
おはなし 庶民の楽しみー謡講ー 井上裕久
謡講形式の
素謡 『敦盛』キリ
替謡 『蛸盛』
素謡 『老松』
素謡 『鍾馗』
井上裕久 吉浪壽晃 浦部雪裕
(休憩)
能 『鉄輪』 (宝生流)
シテ(女 女の生霊)武田孝史 ワキ(安倍晴明)江崎欽次郎 ワキツレ(男)松本義昭 アイ(社人)深田博治
笛:杉信太朗 小鼓:後藤嘉津幸 大鼓:柿原弘和 太鼓:田中達 地頭:山内崇生
面:前シテ「曲女(曲見)」(静嘉堂文庫から借用) 後シテは紹介無し、多分「生成り」
蝋燭の灯りによる企画公演、という寸法で、始まり前から、白州上に蝋燭が立てられ、点火された。舞台上を暗くして、薪能のような効果を期待しての演出か。
謡講というのは、能の謡だけを、京の庶民が楽しんで、それぞれのお家で月に一度と定めて、発表会というか何というかを楽しんだというのだ。途絶えていたのを10年くらい前に、井上裕久さんが発掘して、再上演。といっても、昔の京町家で、あちこち謡講ができる訳も無く、残っている京町家の奥座敷を使って、ということらしい。
障子で仕切られた奥部屋で、姿を見せずに素謡を謡い、障子のこっち側の部屋で、じっくり聞く、らしい。能舞台での素謡とは違って、姿が見えないから、謡に集中して聴く楽しむ、という風情か。でも、それだけ視覚を排除するのだから、詞章は皆さんよく知っているという前提でしょうね。
『敦盛』は入門バージョン。『蛸盛』は替え歌の楽しみ。
『老松』は、影絵を映すという趣向。
本番は『鍾馗』。舞台上に置かれた障子の奥に3人が入って、シテ、ワキ、地謡と。詞章はそこまで聞き取れないし、見所が暗くてプログラムも読めないし、字幕表示も無いし、で、寝た。例えば、今までお稽古した曲『土蜘』とか『竹生島』、『田村』、『紅葉狩』ならば、きっと楽しめただろうが、現代では無理なんじゃ無かろうか。
玄人的な素人向けの楽しみであって、そんな人が、現代でそんなにいる訳が無い。
能『鉄輪』も初めて。なかなかおどろおどろしい物語で、離婚されてしまった(捨てられた)前シテ女が、貴船神社に恨みを晴らそうと丑の刻詣りをする、そこのアイ社人が鉄輪をかぶって、蝋燭を立て、顔を赤に塗って、あのスタイルにして祈れば、相手を殺すことができる、というご宣託を告げる。体調がすぐれないワキツレ男が、ワキ安倍晴明に助けを求めると、もはや思想が出ていて間に合わないと言うが、なんとか助けてくれと。ワキ安倍晴明は、正中先に出された祭壇に祈る、そこに今や鬼になりかかった後シテが登場して、先妻の人形を打つ、そして夫のも打とうとすると、神が現れて思いを遂げられず、またの機会に、といって去って行く。
女の執念というか、恨みというか、『葵上』に似た物語。面も、本では前シテが「泥眼」、後シテが「生成り」と書いてあったが、今回は、前シテだけ紹介があって「曲見」だと。
ストーリー重視の曲であって、舞などはない。恨みを晴らす型はある。
でも、とにかく舞台が暗すぎた。演出だろうけど、せめて舞台上はもう少し明るくしないと。何しろ、あれだけ紹介があった前シテの面もよく鑑賞できないし、後シテの入場時に、頭に鉄輪を被っているかどうかも解らない。見えない。
わかりやすいストーリーだから、詞章が良く解らなくても良いんだけど、でも舞台が暗くて、衣装も面もよく見えないんじゃ、ダメじゃん。じゃあ、字幕表示だけでも出せば良いのに。プログラムを読めない暗さ。かなり、一生懸命事前お勉強していったから、まあ解ったけど、隣の叔父さんは、ずっと寝ていたよ。
お勉強の中で解ったんだけど、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の尊が、天の磐座(いわくら)で、天地開明以来、初めてまぐわって(セックスして)、そこから男女夫婦の道ができて、陰陽の道となる、と。キリスト教にも同じような話があるよね。エデンの園でリンゴを食べて。どこでも同じような神話ができるのだ。それだけ、男女の性は有縁、尊いものであって、必要不可欠、かつ、それを夫婦だけに限定するのは構造上不可能なのに、文明というか、宗教というか、でがんじがらめにするモノの、結局、邪淫戒を破るモノは多発して、人間の様々な物語と歴史ができあがっていく。
不倫、というコトバは好きでは無い。倫理に反するか?強引に、宗教力とか文明力で、自然な営みを、夫婦間に限定させているにすぎない。もっと自然に。
蝋燭という企画優先すぎて、お能の楽しみが奪われた感じ。失敗でしょう。
こういう企画ならば、来年は行かないよ。
笛が杉新で、ちと楽しみだったけど、顔が見えなかったし・・・。