9月25日(金) GINZA SIX 観世能楽堂

狂言 『宗八』 (和泉流 野村万作家)

  シテ(宗八)野村万作 アド(主)野村裕基 小アド(僧)石田幸雄

能 『朝長』 (観世流 宗家・梅若家)

  シテ(青墓の長者 源朝長ノ霊)大槻文藏 ワキ(旅僧)宝生欣哉 アイ(里人)野村太一郎

  笛:松田弘之 小鼓:観世新九郎 大鼓:亀井忠雄 太鼓:三島元太郎 地頭:梅若実

 

大阪の、観世流シテ方人間国宝大槻文藏と、その息子裕一が、東京公演をしたモノ。

1部2部制で、入れ替わり。2部の能『邯鄲』の地謡が観世宗家なので、上記には、観世流宗家、と記載したけど、1部の地謡は、全員梅若で、紀彰師が地謡にでるから、1部だけ観に行ったようなモノ。

もう観世能楽堂は高級すぎて行かない、と決めていたのに、行ってしまった。銀座で、新しいGINZA SIXの建物だから、始まる前に立ち食い蕎麦でも、という雰囲気はまったくない。

お客は、市松模様の席で半分なのに、更に空席が目立ち、全体としては4分の1という感じ。だから、見所は観世の人々のエリート素人と、評論家のような人ばかり。テレビで見かける人も多くて、まったく気後れがする。

しかし、正面最終列であったので、ゆったりとは鑑賞できた。

 

狂言『宗八』は初めて。もともと料理人なのに嫌になって出家した小アドと、もともと出家なのに嫌になって料理人でもやるかというシテ宗八(これは名前)。有徳人にそれぞれ雇われて、暮らしができると喜んだが、読経せよ、魚料理の下準備をせよ、とのご下命だが、シテ宗八はまったく料理できず、アド僧はまったくお経が読めず。困っていたらば、じゃあ交替してということになって、シテ宗八が朗々と経を読み(実際は、ムニャムニャ、だが)、小アド僧が2本箸と包丁を使って古式正しく魚をさばく。

この小アド僧の包丁捌きが、なかなかのモノで、長い菜箸を使って、魚に触れずに切っていく。これはこれで訓練したのでしょう。

アド主が帰ってきて、勝手に交替するなと怒る。良いジャンねえ、交替しても、ちゃんとできたんだから。許すまいぞ、許されませ。

野村万作家は、やはり、しっかり狂言ができる。裕基君も、しっかりとアド主役。

コロナ対策で、休憩なし。

 

能『朝長』は2度目。前回は2019年2月。なんと、シテが、前シテが梅若紀彰、後シテが梅若実だったのでした。その頃はまだお教室も始まっていなくて、紀彰師に教わるんだと言うだけは認識していた時代。ちょっとそのブログも見てください。

特に、後シテがよろよろと出てくる、と書いてあって、この頃から実師は脚が悪かったんだとわかる。この曲は、舞が少ない曲なのに、前シテと後シテとシテ方が別人に分かれていた。勿論今回は、人間国宝大槻文藏が1人で。

今回は、前回のシテが、地頭と隣に座る地謡。実師は、やはり、椅子。特に退場時は、紀彰師が支える。地謡が5人なのは、多分コロナ対策。

コロナ後、ショーケースを主流に見てきたので、何だか、本格的なお能を久しぶりに観る気がして、また、人間国宝がシテだからか、舞台がピシッとしまっている。やはり、同じ曲でも、同じ流派でも、役者や配役によって、雰囲気が異なる。一期一会の能会の良さか。囃子方も良い。アイの野村太一郎君も、しっかりと語る。

源義朝が平治の乱で敗れて都落ちする時、子の朝長が乗馬中矢で足を射貫かれて、逃げ切れないから自害する、それを弔うワキ僧らと、墓を護る前シテ青墓の長者。多分「深井」の面。

2人の語らいが多くて、動きはさしてない。が、大槻文藏さん、下に居から立ち上がる時に、フラつく。そうだよね、お歳だから。私が仕舞のスタートで立ち上がる時にフラつくのも、仕方ないんじゃ。ああフラついてしまった、とだけ思ってそのままさりげなく続行すれば良いのです、とお勉強。

後場は、朝長ノ幽霊が登場。前回は、梅若実がフラついていたが、考えてみれば死亡時16歳の若武者なんだよね。その幽霊なんだから、演技でフラつく必要はない。よく覚えていないかったけど、葛桶に座っている時間が長い。もっと修羅能らしく、戦うシーンがないかな。でも、自殺する有様なんだね。

舞も戦闘シーンもなくて、動きの少ないシテ方。

キリの辺りの地謡は勇壮で、実師も、紀彰師も、良く通る声で、大きな声で、身体を揺らせて謡っていて、良かった。これだけでもやはり来た甲斐があったというモノ。

 

高等遊民。最近はお能がないと、落ち着かないような浸りっぷり。取り分けて、梅若会と紀彰師の追っかけ状態。夜も日も明けぬ有様。