4月24日(水) 代々木能舞台

仕舞 『網ノ段』 『須磨源氏』

能 『梅』 シテ(里女、梅の精)浅見真州 ワキ(藤原の何某)福王和幸 アイ(所の者)野村万蔵

   面の紹介無し。前シテ:多分「若女」、後シテ:同面に梅が付いた冠

 

東京で行ったことがない能舞台に行ってみようと。何だか、勝手に、代々木公園の近くの自然の中のひっそり建つ能舞台と想像していたら、初台という都会から徒歩5分の住宅地の中。能舞台そのものは、古いモノらしく、能楽堂形式になっていない。外の能舞台で、雨がそのまま吹き込む感じ。橋掛かりは舞台と直角で、敷地が狭いため、切り戸口にどうやって進むのだろうか、本当にそこから役者が出てくるのかしら、という感じ。見所は、能舞台とは別建物だが、ほぼ付くように近接していて、畳敷きの正面席しかない。隣接する板張りの練習舞台(かな?)にもカーペットを敷いて、そこにも座布団が並べられている。そこからはあたかも中正面。脇正面部分は、庭になっていて、手が込んだ綺麗な庭で、舞台付近と橋掛かり付近は玉砂利。松が三本、これは本物の松が、適当な高さに揃えられて植えられている。

見所から橋掛かりの上後方には民家が見えて(もしかしたら浅見さんの自宅かな)、窓も見えるので、演じているときに、雨戸をガラガラと閉めたり、部屋の電気が点くと興ざめだなと思った。実際は、点かなかったし、戸の開け閉めもなかった。

全くの都会なのに、静かで、近くの首都高速の音も聞こえず、そこは良かった。都会の、住宅地の中の能舞台としては出色ではないか。

 

『梅』は、まったく事前学習の資料が見つからずにいた。当日、図書館でたまたま「能の表現」(清田弘、草思社)を見つけて、読んだので、若干わかったが、それでもその文章自体が難しくて理解しきれなかった。

仕舞2曲に続いて、休憩なく始まる。しずしずと笛方が登場、女性だ。女性の能楽師って、格好いいなあ。大鼓は又々國川純さん。毎度。ワキの福王さんもシュッとした美男子。声が良い。

作が、観世太夫15世で、明和という江戸時代中期の作という。観世流しかない。ということで事前学習が困難だったのだ。世阿弥の作風とは違って、序破急はなく、ひたすら、和歌の謡と、優美な舞。退屈と言えば退屈になるだろうが、能らしいと言えば能らしい。「お能」と言うに相応しい。能舞台で外気を感じながら、優美で優雅なお能を見ていると、深遠な気持ちになってくる。心が豊かになる。眠くなるどころではない。

後シテの舞で、目付柱のそばにいた私の近くで、照明の関係で顔の半分に影が見える面で、こちらを見つめられるようになると、ゾクッとしてくる。美しい。

多分、能を初めて見るような人だったら、つまらなくて、眠くなって、もう2度と能なんか見るか、となりそうだが、高等遊民、半年以上の能楽鑑賞経験を経て、こういう「お能」に魅力を感じてしまう。

内容は、桜花を讃える万葉集の歌に対して、あれは桜ではない、梅だと諭して、梅の美しさを表した(と思う)舞のお能。何だか、ちょうど平成から令和に変わる直前で、令和は万葉集が出典となった時期に相応しい。それどころか、令和は万葉集と行っても立派な漢詩から取っているが、こちらは、正しき和歌。しかも、令和もこちらも、桜花ではなくて梅というのが、梅ファンの私としてはうれしい。

令和という新元号は、騒ぎすぎなんだ。馬鹿な安倍が、国書から云々と言っているけど、国書ではあるが、立派な漢詩だし、元々元号制度も国産ではない。それに比べて、国産のお能で、まさしく国書の和歌を引く「梅」の方が、数段素晴らしいではないか。