2月23日(土) 鎌倉芸術館小ホール

 

プレトーク 観世銕之丞

狂言『末広かり』 和泉流

    シテ(果報者)野村万作 アド(太郎冠者)中村修一 小アド(すっぱ)高野和憲

能『高砂』ー八段之舞 観世流

    シテ(前:老人、後:住吉明神)観世銕之丞 ツレ(姥)観世淳夫 ワキ(神主・阿蘇友成)宝生欣哉

    アイ(高砂の浦の男)内藤連

    面:前シテ小牛尉(中村直彦作) 後シテ:霊神(臥牛氏郷作) ツレ:姥(中村直彦作)

 

鎌倉芸術館25周年記念の能楽。本格的な能舞台を設営したホール。ホールの能を見るのは初めてかな。屋根以外は、橋掛かりもあって、本格的な能舞台。鏡板の松も立派。

 

観世銕之丞のプレトークは、本人も言っていたけど、話すのが苦手らしいが、高砂の解説としては問題ない。

 

狂言『末広かり』は、何回目だろうか。でも、万作は見るのは初めてか。声がかれていて、よく聞き取れない。話し言葉は古式なのかな。太郎冠者が都に買い物に行き騙されるシーンでは、ピクリともしない。帰ってきて、怒られて、機嫌を取るための謡の時には、万作は段々と身体がウキウキと動いてくる様はたいしたもん。そして、その謡には本物の囃子方が4人出てきたのだ。これはびっくり。次の能の囃子方だが、万作だからなのか。

 

『高砂』は初めて。面白い。老人夫婦の登場。先頭は姥だ。ついで爺。尉面を着けたシテが、ユルユルと登場すると、舞台が引き締まる。銕之丞さんは声もしっかりしていてよく聞き取れる。慣れと事前学習で、コトバもわかる。

八段之舞の小書きは、後場の神舞が通常五節なのが八節になることと、舞台に囃子方入場後、相生の松の作り物が中央に置かれる。本物の松で、枝振りのよろしいのが切り出されててきている。この相生の松の前で、シテ尉とツレ神主の問答。もはやこの辺で感動的。動かないシテのちょっとした動きが意味を持つ。

仲入後の後シテ登場は、緊張の中で。神舞八段は、感動的で、目が離せない。能の舞は、象徴的な動きだけなのだが、だからこそ目が離せない。おめでたの舞なのに、神舞なのに、何でウルウルしてくるか。

始まる前に、能面の紹介を出してくれるよう頼んだ。休憩時点で出ていなかった。終わってからも出ていない。残念と出口に向かったら、頼んだ係員女性から声をかけられて、面を記したペーパーを渡された。主催者の考えで、貼り出さないという。嘘でしょ。主催者って誰、と聞いたら、館とシテの両者だと。嘘でしょ。館の運営者が考えもしなかっただけでしょ。観世会館でも横浜能楽堂でも掲示されている。どうしてそういう言い訳をするか。能は面も見たいのです。ただ、今回は新作だから書きたくなかったのかも知れない。でも銕之丞さんが選択した面だから良いじゃないか。オペラグラスで見ていたが、良い面だったよ。能にオペラグラスは必至か。

能って良いなあ、と感動しているのに。日本の美、感動は、空白にある。こってりしていない。余白が多い。それが良い。